瞑想は実用的か

正しい時に正しいことができる人を、実用的な人といいます。そのような人の外的な生活はとてもうまくいきます。しかし、どんなに賢くても、どんなに気をつ けていても、途方に暮れるときが誰にでもあります。どう言ったらいいのか、何をしたらいいのか分からない時や、正しいことを言ったり、したりしているにも かかわらず、すべてのことがうまく行かなくなってしまうことがあります。人生をコントロールできなくなるのです。心から何かをやりたいし、何かになりた い、でも、できない。 なぜこんなことが起こるのでしょうか?それは、外的な能力というものが、内的な〈気づき〉に常に左右されるからです。内的な生活で実用的であれ ば、すなわち祈りや瞑想をしていれば、内的な〈気づき〉を増やすことができます。内的な〈気づき〉があれば、永遠の真実や、終わりのない喜びに自由にアク セスでき、外的な生活もコントロールできるようになるのです。 わたしたちは常に、外側からではなく内側から成長します。植物は土の中の種から成長するのであって、その逆はありません。内的な生活は、常に《真 実》と神のメッセージを携えています。この内面の《真実》は種です。この種を発芽させて苗ができ、さらに木となれば、その木になった実を食べることができ ます。そして実を食べながら、この実は外的な世界に存在するものだけれど、源は内面の世界から来たものだと分かります。このように、内的な世界での受容 力、または能力が、外面の世界に表れてくるのが分かります。    ただ単に外的な世界で、どんなに長い間働いても、話をしても、何をしようと、《真実》に近づくことはできません。まず瞑想して、それから話し、行動 して初めて、実用的なことをすることができるのです。内面の世界での実用性は、外的な人生を導いていきます。その逆はありません。外的な人生における命の 息吹は、内的な生活から来たものでなければなりません。このようにしてこそ、本当に実用的になれるのです。 勇気を持って内的な生活に入ってみれば、内的な生活は実用的であり、現実的であり、自然であることがわかるでしょう。愛、光、平和、喜び、というも… »

瞑想の道の果実とチャクラ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 瞑想の道の果実 ゴールに通じる道はたくさんある。ある道は美しい花が道の両側にいくつも咲いていて、二本目の道は幾輪か咲いているだけ、そして三本目の道は一輪も咲いていないかもしれない。もし三人のシーカーが自分の魂の必要とするものと好みに合わせてそれぞれの道を行くなら、最終的には全員がゴールに到達するが、旅路の途中ではかなり違う経験をすることになるだろう。 経験のひとつひとつが悟りへの一歩だ。ひとつひとつの経験が自分への自信を高めてくれる。ひとつ経験するたびにあなたは励まされ、活力をもらい、さらに遠くまで進もうと思えるのだ。そしてすばらしい歓びも得られる。そのような経験をしている間、ゴールに向かって背中を押してくれる目に見えない導き手を自分の中に感じるかもしれない。 「ゴール」と呼ぶ果実を得る前に、あなたはいろいろな種類の実をたくさん味見したいと思うかもしれない。しかしゴールという果実を口にして初めて完全な満足を得ることができる。シーカーの中には、神を悟るという果実以外はなにもいらないと感じる人もいる。その人たちにとっていわゆるスピリチュアルな経験というのは全く必要ない。もしあなたに非常に早く走れる力があるなら、神を悟る前に何千という経験をする必要はない。神になっていく過程で広がっていく意識そのものがしっかりとした経験なのだ。 内的経験をしても、その経験が本物なのかどうかわからないときがあるかもしれない。しかしこれは、あなたに師がいない場合にのみ生じる問題だ。もし師がいるなら、それが実りある内的経験なのか、それとも自分自身を欺いているだけなのか、すぐに教えてもらえる。スピリチュアル・マスターなら疑いも躊躇もなく簡単にわかる。 もしあなたに師がいなくても、この問題を解決することはできる。ただスピリチュアル・ハートに集中するのだ。もしあなたのしている経験が本物なら、まるでハートに蟻が這い回っているかのような微かな感覚を覚えるはずだ。 あなたの経験が本物かどうか見分けるには他の方法もある。なるべくゆっくり静かに息を吸ってみよう。そして自分の中に純粋さを取り込んでいるのだと思うのだ。純粋さが糸のようにあなたの中に入ってきて、おへそのチャクラの周りに巻きついていくのを感じる。そのとき自分の経験に集中し、もしあなたのスピリチュアル・ハートがおへそのチャクラに入っていこうとしないのであれば、この経験は単に幻想にすぎないとわかる。しかしもしハートが喜んでおへそのチャクラの中に入っていくのであれば、その経験は絶対に正しく本物だと保証する。 または、何か経験をしている最中に、その経験そのものになっていけるかどうか二―三分ほど試してみたらいい。その経験そのものになっていくのは時間の問題だと感じるのであれば、その経験は本物だ。でももし、現実は別のところにあって、その経験そのものになっていくことは決してできないと思うのなら、本物の経験ではない。 ある経験をしている時に、内的生活と外的生活を分けようとしてみたらいい。外的生活は人間として必要なこと、地球上で必須とされることだ。内的生活はやはり必要な生活だが、これは神にとって必要なのであって、あなたが必要としていることではない。神にとって必須のことであって、あなたにとっての必須ではない。だから、神の必要としていることがあなたの経験の中であなたの経験を通して機能しているのか感じようとするのだ。神があなたの中であなたを通して自分を満たす必要があり、またそうしたいと思っているのか感じよう。このような感覚または悟りがあるのなら、あなたの経験は本物だと言える。真の経験というのは、あなたが誠実に内的生活を欲し、必要としたとき、そして神があなたの中であなたを通して内的生活を必要とし、欲した時にのみ得られる。このような理解に達したら、あなたの経験はすべて本物だ。本物でないはずがないのだ。 思考<マインド>を浄化する マインドは大体いつも純粋ではなく、上向きでない考えを持ってくる。ただでさえマインドは猜疑心、嫉妬心、偽善、恐怖心など神聖でない資質の餌食になっている。否定的なものはすべてまずマインドを攻撃する。ほんのちょっとの間そういう考えを遠ざけることができても、またそういうものがマインドの扉をノックする。マインドとはそういうものだ。それに対し、ハートはもっとずっと純粋なものだ。優しい気持ち、愛、献身、明け渡しなどの神聖な資質がすでにハートにはある。だからハートはマインドよりずっと純粋なのだ。たとえ恐怖心や嫉妬心がハートにあったとしても、ハートの良い資質が前面に出てくるのだ。 とはいってもバイタルが近くにあるので、ハートは完全に純粋ではないかもしれない。おへそのそばに位置する下位のバイタルが上ってきてハートの中心に触っていく傾向があるのだ。バイタルが近くにあって影響を与えるためハートが純粋でなくなる。でも少なくともハートはマインドとは違う。マインドは純粋でない考えに自ら扉を開け放してしまうのだから。ハートはマインドよりずっと良い存在だが、一番良いのは魂だ。魂は純粋さ、光、至福、神聖さだけの存在だ。 練習… »

瞑想のための音楽とマントラ

魂の(ソウルフルな)音楽は、内なる平安へ導いてくれる最も簡単な方法の一つです。ソングス・オブ・ザ・ソウルのコンサートツアーを含め、私たちはたくさんのコンサートを開催しています。                 「 魂の音楽、霊的な音楽を奏でるとき、私たちはすぐさま意識の最も高い領域へ運ばれる。魂から音楽を演奏するとき、私たちは高く、より高く、最も高いところへ行く。魂の音楽が演奏されるときはいつでもインスピレーションと歓喜を得る。音楽は一瞬にして私たちの意識を高くすることができる。」 — シュリ・チンモイ 誰もが馴染み深い音楽は、シュリ・チンモイにとって 「至高のもの」と内的な親交をはかるものでした。彼は生涯で22,000曲以上のソウルフルな楽曲を作曲し、800近くの無料のコンサートを世界中で開催しました。シュリ・チンモイのコンサートについてもっと読む» いくつかの音楽ファイルをこちらからダウンロードして楽しんだりマントラの練習に使うことができます。: Flute music for meditation by Sri Chinmoy… »

瞑想とは?

瞑想とは 瞑想はとてもシンプルでナチュラルなこと。 思考の領域を超えて、ハートの奥深くにいる一番純粋で美しくてすばらしい自分を発見すること。 そこは静寂と落ち着きに満ちた場所でもあります。 実は瞑想は誰でも経験していること。 それは大自然の中を歩きながらだったり、山あいの真っ赤な夕焼けを眺めながらだったりします。 でも、大体「自分の中の一番美しい部分」は日々の忙しさやストレス、不安や心配の下に埋もれてしまっています。 瞑想はこの内面の 宝物を見つけ出す旅です。自分発見の旅なのです。 自分がもう持っているものなのに、それが感じられないのはなぜでしょう。 それはマインド(頭)の中がいつもいろ いろな考えでいっぱいだから。 ハートの声を聞くには、この「雑音」をまず静めることが必要です。 だから瞑想を学ぶ第一歩は、マインドを静めること。この集中の練習を、セミナーではいくつかご紹介します。 呼吸を使うやり方… »

瞑想のためのアフォリズム

  魂から祈り 自分を捧げて瞑想するたびに 主スープリームが花咲いていくのが見える 私のハートの中で 美しく光を放ちながら 〜シュリ・チンモイ著「神は…」より   神と心を通わせるため 人には静寂な瞑想がある 人と心を通わせるため 神には本当に必要な<平和>がある 〜シュリ・チンモイ著「神は…」より   瞑想が教えてくれることはただひとつ―神は存在する。… »

無料音楽ダウンロード:瞑想の音楽

音楽を頭で理解しようとするのではなく、 心で感じようとするのでもなく、 ハートの空にただ自然のままに 音楽の鳥を羽ばたかせればいい。 瞑想音楽無料ダウンロード(mp3) mp3の瞑想音楽無料ダウンロードページへようこそ! このページで、皆さんが毎日の瞑想にぴったりの音楽を見つけられることを心から願っています。ここには広告もありませんし、登録も不要、ただ無料で瞑想音楽ダウンロードをしていただけます! 楽器やジャンルによって分けてありますので、気になるものから試してみてください。各エントリーにはダウンロード用のリンクがあり、最初のトラック、またはアルバム全部が今すぐ試聴できるようにもなっています。 音楽でどう瞑想するかは瞑想音楽のページをご覧ください。Enjoy! 瞑想音楽のダウンロード―西洋楽器 森の緑 シュリ・チンモイによる瞑想のためのフルート音楽 MP3無料ダウンロード 今試聴する シュリ・チンモイの初のフルート録音… »

瞑想 音楽

「スピリチュアルな世界で、瞑想の隣には音楽がある。音楽の息吹がある。 瞑想は活力をくれ、満たしていく静寂だ。 静寂は表現できないものを雄弁に語ってくれる。」 ―シュリ・チンモイ ハートの空に ただ自然のままに 音楽の鳥を羽ばたかせればいい. 瞑想音楽 瞑想音楽について書こうと思って座ると、今朝の瞑想のことが思い出された。家で自分のシュライン(瞑想を行う定位置)に向かって、集中しよう、瞑想しようとしていた。どういうわけかいつもより入っていけない。それでも気づいたことがあった。周りの何かを感じとっているのかとも思ったけど、違う。私の内側のことだった。幸せだ、本当に幸せだと感じていた。何年も瞑想していく中で、この朝の瞑想のひと時が人生で一番幸せな時間になった。この幸せを、ほんの少しでもいいからみんなと分かち合えたらいいのに…そんな思いから今日、これを書いています。                                                                                   パタンガ・コーデイロ 音楽を使う瞑想の仕方 音楽を使って瞑想の練習をする 音楽を使ってどうやって瞑想したらいいか? 実は、多分皆さんが思っているより簡単にできます。シュリ・チンモイの瞑想音楽を使った練習をここでご紹介しましょう。 1、瞑想に向いた音楽を用意して、かける。(無料音楽ダウンロードについては次の項へ)… »

瞑想ワークショップについてよく聞かれる質問

Q: ワークショップに持っていく必要のあるものはありますか? A: クラスの前にシャワーを浴びて、清潔でゆったりした明るい色の服を着て来れれば、一番理想的です。仕事から直接来られる場合はそれでも構いません。一番大切なのは自分の中に深く入って自分自身の内なる財産を見つけようとする誠実さです。   Q: 瞑想を学ぶのは簡単ですか? A: 個人差もあり、どれだけ努力するかにもよります。ある人は自然とできるようになりますし、また別の人にとっては少し時間がかかる場合もあります。自転車に乗れるように練習するのと似ています(小さいとき自転車に乗れるようになるまで何度転んだか覚えていますか?)。重要なのは毎日練習を続けることで、毎朝決まった時間にやるのが理想的です。何度か試しただけで決してあきらめないで下さい。本当に瞑想が自分に合っているかどうか見極めるのに最低でも3ヶ月間続けることをお薦めします。   Q:   瞑想には色々とやり方が ありますが、どんな瞑想を教えるのですか? A: 私たちは「ハートの瞑想」と呼んでいます。徐々に考え事を沈めて、スピリチュアルハートに入っていこうとします。これをやるのに最初は色々なテクニックを試してみます。   Q: なぜ無料なのですか? A: 私たちは瞑想のワークショップを社会奉仕の一つとして行っています。私たちも心の平安や幸せを探していました。そして 幸運にも それらを瞑想を通して見つけることができました。… »

ウパニシャッドの一つは瞑想には…、オーラ…、魂が体から出て…

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 我が魂は 人生の闘いを超え 無限を飛んでゆく火の鳥 ウパニシャッドの一つは、瞑想には三種類あると述べている。低いレベルの瞑想、微細な瞑想、そして超越瞑想だ。あなたの経験の場合は、このうちの最初の段階で起こっている。非常に高い瞑想をしているにもかかわらず、あなたは自分全体の存在がそこにあるとは感じられないのだ。霊的な意識においては非常に高い瞑想をしているのだが、完全に実りのあるものではない。内的家族のメンバー全員が参加してはいないからだ。 第二段階の瞑想では、自分の意識を完全に認識し、その中でその意識と完全に一つになる。今はただ意識という言葉を使っているだけだが、この段階になると、実際に意識が何なのか見えて、感じられるようになる。一瞬一瞬に、自分の中にある聖なる光の一筋、そしてすべてに行きわたる光が見えるようになる。この光が至高なるものとあなたを結んでいるのだ。この瞑想の段階では、あなたは地球と天国をつなぐ存在になる。 第三段階の最も高い瞑想は、超越瞑想だ。この段階では自分自身を「瞑想する者」と「瞑想それ自体」の両方として感じること、または見ることができる。この段階では見るものと見られるものが一緒になる。これが起こるのは最高の超越の意識でだけだ。それは、誘惑、フラストレーション、不安、恐れ、嫉妬、失敗といった自然の舞を超えたところにある。でもだからといって、低いレベルの瞑想では自分なりの最も深い瞑想には入れないということはない。入ることはできるが、その最高に深い瞑想を享受しているのはハートと魂だけだ。身体、バイタル、マインドは享受してはいない。それでこのレベルの瞑想を低いレベルの瞑想と呼ぶ。 Q: 魂が体から出てしまったという経験を瞑想中に一度したのですが。 A: 瞑想中に魂が体から出るということはある。場合によっては魂が本当にパワフルに前面に出てきて、身体の意識がなくなってしまうか覆い隠されてしまうか、または魂の光によって完全に光が当てられ、変革されてしまう。 Q: 瞑想中に見えるオーラについてお話ししてくれますか。 A: 人間は誰でもオーラがある。瞑想中に自分のオーラが見えるかもしれないが、集中している最中や寝ている間にも見えることがあるかもしれない。瞑想とオーラに直接のつながりはなく、ただひとつ言えるとすれば、瞑想することによってより平穏な意識に入っていき、そのような意識のときはオーラが見えやすい。 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より  

師・グル・スピリチュアルマスターとは?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より スピリチュアル・マスターが教え子のためにする最も大切なことは、教え子が自分の奥深くに、何か広大で無限なものを常に意識できるようにすること。そしてこの広大で無限な存在とは神に他ならない。 グルとは何か? グルというのはサンスクリット語のことばで、「光をあてる者」という意味だ。光明を与える人をグルと呼ぶのだ。私自身の内的な悟りから言えることは、真のグルは一人しかいなく、それはスープリームだ。人間に真のグルはいない。でも、スープリームだけが真のグルとはいえ、ここ地球で時間は貴重なものだ。光明への旅路を助けてくれる人がいるなら、その人を自分のグルと呼んでもよい。 スピリチュアル・マスター(導師)、つまりグルというのは家族に例えると年長の子供のようなものだ。そしてシーカーというのは弟、妹たちのようなものだ。スピリチュアル・マスターは、弟、妹たちにお父さんつまり絶対なるグルがどこにいるのか教え、示してくれる。 真のグルは広大な青い空のどこかにいるのではない。私たちのハートの一番奥にいる。「もし私たちのハートの中にいるなら、スープリームを見つけ出すのに何故他の人の助けが必要なのですか。」と訊ねるかもしれない。この計り知れないほど貴重な宝物は確かに私たちのハートの中に存在するが、見ることも感じることもできない。だから助けが必要なのだ。グルつまり精神性の先生は、私たちの友だちであり、自分自身の宝物をどうやって見つけたらいいのか、教えてくれる。 今生きているグルを絶対に持つ必要はないが、強くお薦めする。あなたにはゴールがあるのがわかっていて、そのゴールにたどり着きたいと思っている。もし賢明なら、一番簡単に、安全に、そして効果的にゴールにたどり着くための道を示してくれる人の助けを受け入れることだろう。神を悟るのに何百年も何千年もかけたいのならば、スピリチュアル・マスターを持つ必要はない。しかし、もしなるべく早くゴールにたどり着きたいのなら、先生は絶対に必要だ。 師がいれば、内的成長をうながしてもらえる。スピリチュアル・マスターというのは、スピリチュアル・ライフでのあなたの家庭教師だ。家庭教師と普通の先生は大きく異なる。普通の先生は生徒の答案を見て、点数をつける。生徒に試験をさせて、通すか落とすかする。ところが家庭教師は、生徒がテストに合格できるように個人的に励まし、鼓舞してくれる。人生の旅路において、毎秒毎秒、「無知」からの試験が来る。だがあなたの家庭教師が、どうやったら簡単にその試験に通ることができるのか教えてくれる。なるべく早く至高なるものを悟れるようにシーカーを鼓舞しアスピレーションを高めてあげるのがスピリチュアル・マスターという先生の仕事だ。 この世の中では、何を習うにも最初は先生が必要だ。数学を勉強するには先生が必要だ。歴史を学ぶにも先生が必要だ。人生の他の事なら何でも、学ぶためには先生が必要なのに、瞑想に関してだけはちがうというのは道理に合わない。自宅で自習できるのにみんな大学に行くのは何故だろう。それは、ある分野について専門知識を持ったプロから教えてもらえると思うからだ。真の知識人と呼べる人で大学に行っていない人は、これまでいることはいるがほとんどいない。もちろん例外はある。どんなルールにも必ず例外というのはあるものだ。神は誰の中にもいる。だから、もしシーカーが人間の助けは必要ないと感じるなら、自分の力だけで試してみればいい。ただもしあなたが賢明で、つまずいたりただ歩くのではなく、ゴールに向かって走りたいと思うなら、グルの助けというのは計り知れないものがある。 今、私はロンドンにいるとしよう。ニューヨークが存在することはわかっていて、そこに戻らなければならないとしたら、そのためには何が必要だろうか? 飛行機とパイロットだ。飛行機が私をニューヨークに運んでくれるという事実をわかっているのに、パイロットなしではそこへはたどり着けない。同じように、あなたは神が存在するということは知っている。瞑想を通じて神にたどり着きたいのだが、誰かがそこまで連れて行ってくれないといけない。パイロットがニューヨークまで私を連れて行ってくれるように、誰かがあなたの奥深くにある神の意識へ連れて行ってあげないといけない。瞑想を通して自分自身の神性にどうやって入っていったらいいのか、誰かに教えてもらわないといけないのだ。 スピリチュアル・マスターはあなたのところに船をもってやってくる。そして、 「おいで。黄金の岸辺に行きたいのなら、連れて行ってあげよう。それだけでなく、私の船に乗り込んだら、船上で歌ってもいい、踊ってもいい、眠っていたっていい。それでもあなたをその岸辺まで安全に運んであげよう。」と言う。もしあなたが誰の助けも欲しくないというなら、無知の海を一人で泳ぎ切りたいというなら、それはあなた自身の判断だ。ただそれだと何年、何人生かかることだろう? さらに、しばらく泳いだら疲労困憊してしまい、溺れてしまうかもしれない。 グルなしでは、あなたの前進はとても遅くなり、不確実になる。高い、上昇するような内的体験をしても、それをそんなに重要だとは思わないでしまうかもしれない。または疑いがあなたのマインドの中に入ってきて、「私はただの普通の人間なのに、あんな経験をするってことがあるのだろうか? 自分をごまかしているだけかもしれない。」と思うかもしれない。または友だちに自分が経験したことを話すと、「そんなの全部幻覚だよ!」と言われてしまうかもしれない。しかし内的現実とは何であるかわかっている人がいれば、あなたの内的経験はまさに本当だったと確信させてくれる。マスターはシーカーを励まし、インスピレーションを与えるのだ。そしてもしシーカーが瞑想で何か間違ったことをしていたら、矯正してくれる。 コースを取り終えたら、先生はもう要らない。歌を学びたかったら、プロの歌手のところに行って歌を学ぶ。踊りを習いたかったら、プロの舞踊家のところに行く。上手な歌い手、または踊り手になったら、もう先生のところに行く必要はない。スピリチュアル・ライフでも同じことだ。最初は助けが要るが、いったん本当の上級者になれば、もう誰の助けもいらない。… »

瞑想:人に奉仕する

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 世の中を変えようとしないこと きっと失敗する 代わりに世の中を愛してごらん すると、世の中はどんどん変わってゆく 果てしなく、いつまでも 瞑想:人に奉仕する Q: 瞑想するためには、まわりを遮断して独りきりになり、人を拒絶すべきでしょうか? A: 人類とは神の分かち難い一部分なのだ。人を拒絶して、どうして神聖さを受け入れることが出来るだろうか?われわれはこの世を、今あるがままに受け入れなければならない。受け入れずに、どうやって変革することが出来るだろうか?陶芸家が粘土の塊に触れずに、どうやって壺の形にすることが出来る?瞑想する者は人類の中で神聖な勇者のように振舞わなければならないのだよ。 現在の人類は完成には程遠いところにいる。しかしわれわれもまた、その人類の一部なのだ。自分の体の一部のような兄弟姉妹をどうやって見捨てることが出来る? もし見捨ててしまったら、世の中でうまく行動する自分自身の能力を狭めてしまうだけなのだ。人類を自分のものとして受け入れないといけない。もし自分が他の人にインスピレーションを与える立場にいるなら、もし他の人より一歩進んだところにいるなら、それは後の続く者たちの中の、神聖な存在に奉仕する機会を与えられていると云うことなのだ。 あなたがたは世の中に対峙した上で、世の中で〈至高なるもの〉を悟る必要がある。逃避の人生を送ってはいけない。逃げるのは誰だろう? 怖がっていたり、またはひどく悪いことをしてしまったと思っている者だ。われわれは何も悪いことはしていない。だから周りを怖がる必要はない。世の中を怖がっていたら、すべてに対して恐れを抱いてしまう。今われわれに見えるのは、周りにある巨大で不完全な世の中だ。自分を守るためにそこから逃げようとしている。だが、現在の世の中よりもはるかに恐るべき敵は、まさに自分自身のマインドに他ならないのだ。たとえ洞窟にこもったとしても、マインドから逃げることなど出来っこない。いつも自分に付いてくる。しかもこのマインドは、〈不安・嫉妬心・混乱・疑い・恐れ〉その他の神聖でない資質で溢れている。このマインドのせいで、人生の戦場に留まらざるをえないようになっているのだよ。もしこの世に生きているうちにマインドを克服できないのであれば、単に日常の世界から肉体を遠ざけることが何の役に立つと云うのだ。 瞑想するのにヒマラヤの洞窟に入っていく必要もないし、入って行っていけない。人類の中にある神聖な存在に献身することによって、世の中の実相を変革しようとし なければならないのだ。 瞑想は逃避ではない。この地上で神聖な〈真実〉を、最高に体現するために世の中を変革すると云うビジョンのもと、世の中全体を受け入れること大切だ。自分の内的〈平安〉と前進のためだけに瞑想したい者や、世の中に何も捧げようとしない者は自分勝手な連中だ。また一方で、世の中に何かを捧げたいけれど、捧げるに値する何かを得るために瞑想することはしたくないと云う者もいるが、これは実に愚かなことだ。何も持っていないのに、どうしてそれを捧げることが出来る?… »

瞑想:現実的な問題解決法

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 瞑想は現実的なのだろうか? ある人が日常生活で正しいタイミングで正しいことをする時、その人のことを分別があって現実的だと云う。その人は他の人にだまされないように、また社会生活がスムーズに運ぶように、ある一定のやり方で考え、行動をする。しかし、たとえどんなに賢く、どんなに誠実で、どんなに意識して生活していようと、現実社会の生活で途方にくれてしまう場合がある。 「何を言っていいかわからない。」 「何をしていいかわからない。」 「どう振舞っていいかわからない。」 または、正しいことを言ったり、行ったりしているにもかかわらず、すべてが悪い方へ行ってしまうことがある。 この社会の現実経験とどう付合っていったらいいかわからず、人生を管理することができないのだ。心から何かをしたい、または何者かになりたいのに、出来ないのだ。 なぜこのようなことが起こるのだろう? それは、われわれの外的な力は、常に内的な気づきの限界によって制限されているからなのだよ。しかし内的生活で現実的であれば、つまり祈り、瞑想すれば、限りない〈内的気づき〉を持つようになる。内なる気づきがある人は、無限の真実と永遠に続く喜びに自由にアクセスでき、外的生活を簡単にコントロールすることが出来る。 精神生活<インナーライフ>は常に真実<リアリティ>と神のメッセージを運んでいる。〈真実〉のあるところには〈種〉がある。〈種〉に芽を出し、木になってもらうことにしょう。木に実がなるとき、内面世界の力が現実世界で体現されるのが見える。常にわれわれは、外側からではなく内側から成長してゆくのものだ。 社会生活<アウターライフ>で何をしようが、何を言おうが、〈真実〉の光明に近づいてはいない。しかし、まず瞑想し、それから行動し、話すのなら、正しいことをし、正しいものになって行く。精神生活<インナーライフ>と内的現実<インナーリアリティ>が社会生活を導いていかねばならない。その逆ではないのだ。 社会生活の命の息吹は精神生活から来る必要がある。内的現実が社会生活に入って行かねばならないのだ。そうして初めて、社会生活で本当に現実的になることが出来るのだ。 Q&A… »

朝の瞑想が一番

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より もし神の御顔が見たいなら 毎日少なくともいくらかの時間を過ごさないといけない 神の選ばれし道具であるあなたのハートと共に ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より   ただ目を閉じて、頭に漂っている心地良い思いを楽しむだけの瞑想を五~六回やるより、一日一回でいいからしっかり瞑想した方がいい。瞑想のたびに、自分は〈命の息吹〉を〈スープリーム〉に捧げ、〈魂の光〉を前面に持ってきていると感じなければいけない。そうして初めて、瞑想は意味のあるものになる。もしあなたが、魂を込めて瞑想することが、一日に一回早朝に行うのが精一杯だと感じているなら、それで充分だ。そこにあなたの本当の受容力、誠実さ、やる気、悦びが見えることが何より大切だ。もしそこにインスピレーションがあれば、それは〈スープリーム〉から〈励まし〉と〈許可〉を貰ったということだ。つまりあなたはとても速く走って行くことが出来るだろう。また、昼休みや三時の休憩に瞑想する者もいる。すばらしいことだ。でも、早朝の瞑想も必要だ。朝早く、正しいことをして一日をスタートすることができれば、あなたは一日中インスピレーションを受けた状態でいることが出来る。 朝の瞑想が一番 朝の時間に瞑想すれば、それはとても実りあるものだということがあなたにもわかる。太陽が昇る前、地球の意識はまだかき乱されてはいない。世の中は、まだその日の喧騒の中に入っていないからだ。自然はまだ静かで落ち着いている。このことは、あなたが瞑想をする上で、大きな手助けになる。自然がぐっすりと眠っている間は、人の内に巣くう動物の部分、つまり光があたっていない意識もやはり眠っている。その時まだわれわれは、活力を与え、満たしてくれる夢の世界にいる。そしてそこから現実<リアリティ>が育っていくことになる。だから、アスピレーションを持つ目覚めた意識は、朝の瞑想から得るものが一番多いのだ。 陽が昇ると、母なる大地<マザー アース>は神聖に活動的になるか、あるいは神聖さのない落ち着きのなさを持つようになる。特に西洋では、現在のダイナミックな性質のために、宇宙あるいは外の自然に、ある種の苛立った感覚がある。このような落ち着きを欠いた世の中の性質は、あなたにとっては不要なものであるにもかかわらず、入ってきてしまうことが多い。人が活動し始めた途端、あなたがどこにいようが、たちどころにその波動はあなたの中に入ってきてしまう。大気、光、あなたの周りにあるすべてに、人間の活動と不安感のもつ波動が浸透してしまうのだよ。まるでそれはうなり声をあげるライオンのように、世の中はあなたの目の前に立ちはだかっている。うなるライオンの前で、どうやって最高の瞑想に入れるというのだろう? だが世の中が目覚める前、宇宙がまだ静かで、周りの人たちが休んでいる間なら、あなたはより深い瞑想をすることが出来る。 日中に瞑想するのはとても難しい。夜の瞑想も幾分なりと難しいものがある。なぜなら八時間から十時間、あなたは世間の喧騒の中にいたからだ。日中アスピレーションのない人たちにたくさん会い、そして無意識のうちに、その人たちの神聖でない考えや不純な思いがあなたの中に入ってきてしまっているのだ。内的に非常に強くない限りは、世の中からアスピレーションもインスピレーションもない力をたくさん自分の中に取り入れてしまっているのだ。だから夜に、朝と同じレベルの希望と神聖さをもって瞑想するのはとても難しいのだよ。瞑想の前にシャワーを浴びたり、あるいはスピリチュアルな人と交わったりすることは良いことだ。 朝になるとこのような神聖でない力や経験は、少なくともしばらくの間は、記憶から消え去っている。寝ている間にあなたの中に入ってきていた不純なものはすべて洗い流されてしまっているのだ。その時あなたの魂は、まるで〈聖なる盗人〉のように静かにあなたを観察している。普通の泥棒はあなたから何かを盗んで行くが、この〈聖なる盗人〉はただただ与えるだけなのだ。ある場所で〈平安〉が必要なら、魂はそこに〈平安〉を持ってきてくれる。魂はちょうど母親のように振舞う。子供が寝ている間、早朝そっと部屋に入ってきて、日中に必要なものを用意しておいてくれるのだ。夜寝ている間魂は、あなたに必要なことをやってあげられる機会を持てるのです。しかし、あなたが日中、外の世界の活動に夢中になっているときは、魂はあなたに与えることも、あなたが魂から受け取ることも非常に難しい。だから、朝の瞑想が一番なのだよ。 美<ビューティ>がやってきた… »

良い瞑想とは?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より   スピレーションで行う努力は いつも 満足のいく結果をもたらす 時には時間がかかるかもしれない しかし、 間違いなく、結果がついてくる  良い瞑想とは? 求道者<シーカー>からよく質問されるのが次の三つだ。 1  自分が果たして正しい瞑想をしているのか? 2  それとも自分をごまかしたり幻覚を見たりしているだけなのか?… »

音楽と瞑想:音と静寂

音楽は スープリームのハートの扉を開ける鍵を持っている またその鍵そのものでもある。 音楽…普遍の言語 音楽は神の内なる普遍の言語だ。私はフランス語も、ドイツ語も、イタリア語も話すことは出来ないが、これらの国の音楽が流れたら、すぐにその音楽の心が私の心に入ってくる。あるいは逆に私の心がその音楽に入って行く。この時、言葉でのコミュニケーションは必要なく、心と心の内なる合体で充分なのだ。私の心は音楽の心と一緒になって行き、その中で二つは分かち難く一つになる。 瞑想と音楽を分けて考えることは出来るものじゃない。瞑想の真髄は、心の奥底から〈平安・光明・至福〉を求めて泣き叫ぶとことにある。そしてこの瞑想の次に来るのが音楽、〈魂をこめた音楽〉なのだ。このような音楽は、遥かな高みへ行こうとするわれわれの意識を突き動かし、上昇させる。 あなたがたにとって瞑想を二十四時間するのは不可能だ。出来たとしても、二時間がいいところだろう。だから他の時間には音楽を演奏したり、聞いたりすればいい。魂からの精神的<スピリチュアルミュージック>な音楽を演奏したり聞いたりすれば、瞬く間に、より高い意識の領域に上がって行くことが出来る。魂から音楽を演奏すると、高く、より高く、何よりも高いところまで行くことが出来るのだ。 魂からの音楽を聴くたびに、インスピレーションと歓びが湧き起こってくる。その音楽は瞬く間にあなたの意識を高揚させる。しかし、さらに祈り、瞑想すれば、意識してスピリチュアルライフをしていない音楽愛好家より、もっと光明を受け、間違いなく満たされる。 スピリチュアルな音楽家と云うのはどの人も、意識的に神の光明を地球に振りまいている。神は宇宙の〈演奏家〉であり、われわれは神の楽器なのだ。しかし、やがてわれわれの進化の過程で、神と完全に一つになったと感じる時が訪れる。その時われわれはもう楽器ではなく、われわれ自身が音楽家、神聖な音楽家になる。 ふさわしい楽器を作り出すのはスープリームであり、演奏家がきちんと演奏出来るように奮い立たせて下さるのもスープリームなのだ。音楽をマインドで理解するのはやめること。また、ハートで感じようとすることさえする必要はない。ただ自然に、〈ハートの空〉を音楽と云う鳥に飛んでもらうことだ。鳥が飛翔する時、音楽が持つものと音楽そのものを無条件に顕す。音楽と云う鳥が持つものとは〈不滅〉のメッセージであり、音楽そのものとは〈永遠〉の調べなのだ。 音楽と瞑想Q&A Q: 音楽の種類によっては、心が乱されたり、自分のスピリチュアルな状態を変えられてしまたりするものもありますか? A: その通り、音楽には、内なる存在にとって本当に破壊的なものもある。このような音楽は、肉体か、低いバイタルから来ているのだ。神聖でない音楽は、低いバイタルの意識を目覚めさせ、興奮の世界へわれわれを投げ込んでしまう。スピリチュアルな人は、このような音楽に直ちに影響されてしまう。 音楽にはとてつもない力がある。「火」は火傷を引き起こすこともあれば、料理など他のいろいろ良いことにも使うことも出来る。音楽も同じで、神聖な音楽はすぐに意識を高めてくれが、神聖でないものはすぐに意識を落とし、より良いスピリチュアルな人生を送りたい、と云う誠実な内的叫びを台無しにしてしまう。バイタルの音楽はあなたの意識を落としてしまうのだ。ほんの数秒、あるいは数時間の間は、ある種の快感を得ることが出来る。しかし、この快感によって、あなたは誘惑が待ちかまえている低いバイタルの意識に連れて行かれてしまうことになる。誘惑の世界に続くのはフラストレーションの世界であり、そしてその次にあるのは破壊の世界なのだ。ご存じの通り、バイタルの音楽が世界中でとても流行っている。〈精神的な音楽〉はあ まり広く親しまれているとは言えず、〈魂の音楽〉にいたっては、好む人はほとんどいない。一般の人にとって〈魂の音楽〉は、まるで自分の意識の中に入り込ん出来た見知らぬ人のように感じてしまう。だが実はこれは、スピリチュアルな音楽があなたの中の〈魂〉と云う永遠の住人を目覚めさせていると云うことなのだよ。魂は内側奥深くで、表へとに出てくるのを待っているのだ。… »

マントラとジャパの練習

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より すべてを浄化する もし自分の性質全体を浄化したいのなら、段階を踏み、計画的にジャパを行うことが効果的だ。第一日目には〈オーム〉か〈スープリーム〉か、またはあなたの先生<マスター>がくれたマントラを、ともかく五百回繰り返すこと。二日目は六百回、そして三日目は七百回と云うように、一日百回ずつ増やしていき、一週間後には千二百回に達するまで行う。次に、千二百回まできたら、今度は一日百回ずつ減らしながら、五百回に戻るまで続けてみるといい。こうしてあなたは木に登り、そしてまた下りてくることが出来るのだ。 この練習<エクササイズ>を毎週続け、全部<トータル>で一ヶ月はやるように。 すると終った暁には、好むと好まざるとにかかわらず、世の中はあなたに〈純粋〉と云う新しい名前を授けてくれることになる。 ジャパを行っている間、回数<カウント>をまちがえてしまってもかまわない。「ほぼこのぐらいかな?」と思うところから続けるといい。数を数えるのは、あなたの意識をカウントに繋いでおくためだ。数を数えている間あなたの頭<マインド>は、他の人や他の事を考えないだろう? 次に数えながら、同時にマントラの奥深くにある静寂の世界に入って行くようにしてみるといい。一度入ってしまえば、もう数える必要はない。そこでは「自分が繰り返しているものに意識を集中し、自分がマントラの内的な意味だけに瞑想している。」と感じ始めるようになる。 マントラは常に、声に出して唱えるのが一番いい。しかし数分後に、もし内側に誰か、 ―それはあなたの内的存在― がいるのを感じて、そしてその存在が自分の代わりにマントラを繰り返してくれているのが分ったら、もうその時は声に出して唱え続ける必要はない。ハートの静寂の中で、あなたの内的存在<インナービーイング>があなたの代わりにジャパを行い続けててくれるからだ。 ジャパは朝か日中に行うべきで、床に就く前にはしないほうがいい。一日の仕事で体が疲れて、これから眠りの世界に入りたがっている時にジャパを行ったら、マインドはイライラして、一点に集中することが出来なくなってしまう。また、ただマインドを機械的に動かしているだけになってしまい、そこから何も得るものはない。またジャパは誠実に、魂から行われなければ意味がない。だから寝る前であれば百回か二百回か、せいぜい三百回にとどめておくべきだ。寝る前に瞑想すると、〈平安・光明・至福〉を呼び起こすことが出来る。しかし、もし、ジャパを五百回から千二百回行うと、力強さとエネルギーを画喚起することになってしまい、その結果あなたは眠れなくなってしまう。 ジャパを終えた後で、ハートの中でそのマントラがまだ繰り返され続けていることに気づくことが往々にしてある。これは自らが唱えていないのだが、内なる存在が自然にマントラを唱え始めた結果にほかならない。 Q: 〈Aum〉を一日五百回繰り返すことによって自分の純粋さを増やしていける、とおっしゃっていました。でも私にとって〈Aum〉を一日に五百回も唱えるのはとても難しいことなのですが。どうしたら良いか、アドバイスをいただけますか? A: 一気に唱えるのが難しいのなら、何回かに分けて唱えるといい。十回に分けて、五十回ずつ唱える、と云うのでもかまわない。例えば、一日に水をコップ十杯飲むとして、一気に十杯全部を飲むことは出来ないだろう? だから今一杯飲んで、一~二時間たったらもう一杯飲めばいい。こうすれば水を十杯飲むのは実に簡単だ。 〈Aum〉を五百回一気に唱えるのではなく、朝早くに五十回唱え、一時間後にまた五十回唱える。このように毎回五十回ずつ唱えれば、一回につきかかる時間は、一~二分程度にしかすぎない。一時間のうちたった二分間を神に捧げるのは簡単なことだろう? だからこのやり方でやってみるといい。… »

マントラの力

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 唱える:マントラとジャパ マントラとは繰り返し唱えるための神聖な言葉だ。一音節のときもあれば、一語、数語、あるいは一文のときもある。そしてマントラを何度も繰り返して唱えることをジャパと云う。マントラは神の一側面を現したもので、一つ一つに特別な意味があり、内的な力を持っている。 マインドが落ち着かず自分なりの深い瞑想に入っていけないそんな時は、マントラを使ってみる良いチャンスだ。 〈スープリーム〉、〈オーム〉、〈神様〉などと云うマントラを何分間か唱えてみてごらん。また、感情的なバイタルの領域が攻撃を受けて、悪い考えや悪いエネルギーの振動が入ってきてしまっている時も、〈オーム〉や「スープリーム〉等のマントラを唱えるのは効果的だ。その場合はなるべく早いスピードで唱えること! 既にマインドにある不純なものを浄化したいのなら、動き出した電車に追いつこうとして走っているかのように、急いで唱えなくてはならない。 しかし普段のジャパの場合は、普通のスピードで魂からマントラを唱えるようにすること。また、その際あまり音を伸ばし過ぎてはいけない。あまり長く伸ばすと、少なくとも五百回あるいは六百回と唱える必要があるのに、その時間が足りなくなってしまうからだ。 内なる音 瞑想中に、自分では声に出して唱えてはいない。また供に部屋にいる誰も口に出して唱えていないにもかかわらず、〈オーム〉と云う音が聞こえる時がある。これは内的に誰かが〈オーム〉と唱えたか、今唱えているところだと云うことなのだ。そして瞑想の部屋がその音を失わずにとっておいてくれたからなのだ。 マントラは、運転中や道を歩いている時、あるいは地下鉄やバス停等の公共の場所にいる時でも出来る。道を歩きながら心の中で唱えるのは現実逃避ではなく、アスピレーションのない世間から自分を守ろうとしているだけなのだ。それは、内的な強さと内的な受容力を増やしてくれる。やがて内的に強くなれば、もうマントラは必要じゃない。どこへ行っても、気持ちを乱されることはない。 スピリチュアルな鍛錬にはどのやり方にも、必然の分かち難い翼がニつあるそれは、徹底した忍耐強さと固い決心公共の場所でも高い意識を保とうとしたり、心の奥深くに潜って平安を前面に持ってくるのは難しいかも知れない。しかし、たとえ外的世界の騒音やせわしさに囲まれていたとしても、それよりさらに大きな音を簡単に前面に持ってくることが出来る。このさらに大きな音と云うのは、破壊的なものではなく、揺るぎないパワーを持つ音なのだ。それはあなたが、どれだけ素晴らしく神聖になる可能性をもっているかを感じさせてくれる。もしハートから来る、神聖な内なる音を前面に持ってくることが出来れば、またはその内なる音に自分が入っていくことが出来れば、世の中の外的な音など比べ物にならないと云うことが分かるだろう? ついさっきまで気になっていた音が、もう気にならないことに驚くはずだ。それどころか、騒音ではなく自分の内的存在が奏でる聖なる音楽を聴ける、と云う一種の達成感を感じることも出来るのだ。 〈オーム〉の真髄 〈オーム〉は一つの音であり、分割することが出来ない。これは〈スープリーム〉の振動であり、また〈オーム〉は宇宙の音の種である。この音により、神はその創造物の最 初の振動を創り出した。 マントラの中で最も力に満ち溢れたものが〈オーム〉なのだ。〈オーム〉はすべてのマントラの母だ。… »

祈りと瞑想:羽ばたくための 2 つの翼

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 祈りは平和な人生をあたえ 瞑想は美しいハートをもたらす 祈る時、神は自分より高いところ、頭の上の方にいると感じている。 瞑想する時、神は自分の内深く、ハートの中にいると感じている。 (…) 祈りは純粋だ。マインドはいつも猜疑心、恐れ、心配、不安にさらされ、誤った考え、間違った動きに襲われている。祈りはそれを浄化してくれる。祈りによりマインドは純粋になり、その純粋さは神を受け取る力を高めて行く。 純粋さとは、何を隠そう、神を受けいれる力のことなのだ。祈るたびに内的な器は、どんドん大きくなり、さらに大きく、何よりも大きくなってゆく。すると〈純粋さ・美しさ・光明・喜び〉はその器に入ってきて、ハートの一番奥で共にたわむれる。 瞑想は光の輝きだ。それはハートに光明をもたらす。ハートに光が当たると、不安感や欠乏感は消滅してしまう。その時われわれは、宇宙の意識と超越の意識との分かちがたい一体感の歌を歌う。われわれのハートが光明に照らし出されると、有限なものは無限の中に入り、無限そのものになる。何千年も続いた束縛は消え去り、無限の真実<トゥルース>と光明<ライト>の自由がわれわれを出迎えてくれる。 祈りは神にこう云う。「愛するスープリームよ、あなたは私のもの。あなたは紛れもない私のものなのだとここに宣言します。神聖な資質を尽きることなくお与えください。この地球で私があなたの完璧な道具になれるように。」 瞑想は神にこう云う。「ああ、愛するスープリーム、私はあなたのものです。あなたの御こころのままにいつでも私をお使いください。いつまでも、いつまでも。私を通し、ここ地球で、そして天国で、御自分を満たしてください。」 祈りの最もふさわしいありかたは、日々それを行うと云うこと 瞑想の最もふさわしいありかたは、魂から経験すると云うこと ヨーガの最もふさわしいありかたは、誠実に生きると云うこと… »

質問:集中・瞑想・観想

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より Q: 座って瞑想を始めるのですが、マインドを静めておくのにひどく集中しなければならず、なかなか内なる自己に触れることが出来ないのです。 A: あなたは気づいていないかもしれないが、それはごく正常なことだ。マインドを落ち着かせ、静かにしようとしていると云うことは、集中していると云うことにほかならない。なぜなら集中では思考と感情をコントロールし、そして集中から瞑想への道が切り開かれなくてはならないからだ。瞑想するには、感情的生活と落ち着きのないマインドは、すでにある程度訓練していないとだめだ。マインドを悩ませる思考をすべて追い払うのに成功したら、遅かれ早かれあなたの内的存在が前面に出てくることになる。それは丁度覆っている雲を一掃する灼熱の太陽のようなものだ。今のところ内なる太陽は思考、疑い、恐れなどといった雲に覆われてしまっている。この雲を追い払うことが出来れば、内的な自己が目の前で輝き、明るく光を放っているのがわかるようになる。 ♦ Q: 集中しているのか瞑想しているのかどうしたらわかるのですか? A: 集中の場合にはとてつもない勢いがある。それは丁度的に向かって飛んでゆく矢のようなものだ。勢いのある力から活力をもらっていると感じるのなら、それは集中の結果だ。一方瞑想では、平安と広大な感覚がまわりすべてにあり、特にマインドにそれを感じる。自分の奥深くにどこまでも広がる〈平安・光明・至福〉の海を感じるなら、これは瞑想によるものだ。瞑想とは平安、静寂、そして広大さだからだ。集中と同じく勢いもあるが、その勢いは輝く光で満たされている。集中の場合には至高で輝く光は必要ないし、また殆どそのような光もない。 また集中はすぐに結果を欲しがる。ゴールに到達するためなら何でもする覚悟が出来ている。瞑想は意のままになる時間が無限にあると感じる。これは過ぎゆく時間を軽視している訳ではなく、過ぎゆく時に価値を置きつつも、過ぎゆく時の中に永遠の時が見えるのだ。だから、瞑想の内側には無限の平安があるのだ。 どちらの経験の方が好きだなどと、えり好みしてはいけない。神<スープリーム>〉があなたの中であなたを通して集中したい時には集中になるし、あなたの中であなたを通して瞑想したい時には、瞑想が起こるのだから。 ♦ Q: 瞑想の仕方を一度学んだら、集中の練習はもうしないのでしょうか? A: 一般的なルールとして、スピリチュアルな生活を始めようとしているシーカーは、少なくとも何ヶ月かは集中から始めるがいい。集中を学ぶと、瞑想はやりやすくなる。しかし、瞑想が出来るようになっても、毎日の瞑想を始める前に数分間集中するのはよいことだ。集中すると云うことは、走る前にトラックの障害物を取り除くランナーのようなもので、トラック障害物がなければ、安全に速く走ることが出来る。そうなると、あなたは内なる特急列車のようになり、終点<ゴール>めがけてまっしぐらに進んでゆくことが出来る。 ♦ Q: 瞑想が終わったら、どうやって観想にいけばいいのですか? A: 観想は修行を何年も経た、スピリチュアルな人生でもずっと上級者になってから出来るようになるものだ。観想とは内的なはしごの最上段ともいえる。スピリチュアルなアスピラントの中で、ごく限られた観想であっても、それが出来る者はとてもまれにしかいない。またそれでさえ、自分の思う通りに出来るものではないのだよ。… »

観想の練習

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 観想の練習 1      かくれんぼ<ハイドアンドシーク> 黄金の存在を想像し、その存在は今までこの世で見た最も美しい子供より限りなく美しいと思ってごらん。それが〈愛しのロード・スープリーム〉だ。あなたは神聖な愛し子で、黄金の存在は〈愛しの主なるスープリーム〉だ。 さあ、あなたと〈スープリーム〉はヒマラヤにある山の頂上か太平洋の一番底にいると想像してみるがいい。どちらでもかまわない、あなたが想像出来るほうでいい。想像出来たら、内的に微笑んでごらん。 何秒かしたら、あなた自身が〈愛しのスープリーム〉で、その黄金の存在が神聖な愛し手だと感じてみるのだ。これはちょうど、神聖なかくれんぼをしているようなもの。あなたが愛しの〈スープリーム〉になると、神聖な愛し子があなたを探す。そしてあなたが神聖な愛し子になると、愛しの〈スープリーム〉を探す。 この瞬間はあなたは最高の愛し子で、次の瞬間にはあなたが愛しのスープリームなのだ。最初は半眼でやること。上手くなったら、目を閉じてもかまわない。 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想の練習

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 瞑想の練習 1 ハートのバラ まずあなたのハートの中で花を想像しなさい。今回はバラを思い描いてみることにする。このバラは完全に咲ききっていなく、まだつぼみのままだ。二~三分瞑想したら、その花びらが一枚一枚開いている様を想像しみること。一枚一枚開いていく花をハートの中で見、そして感じること。5分ほど経ったら、あなたのハートはなくなったと想ってみること。そして、「ハート」と云う名の花が自分の中にあるだけだと感じてみる。するとそこにはもはやハートはなく、バラの花があるだけだ。花はあなたのハートになり、そしてハートは花になってしまったのだ。 七~八分経ったら、あなたのからだ全体がこの〈花のハート〉に覆われたと感じごらん。身体はもうここにはなく、頭頂から足の先までバラの香りがするだろう?足を見れば、すぐにバラの香りがしてくる。膝を見てもバラの香りがするし、手を見ても、やはりバラの香りがする。体中いたるところに、バラの美しさ、香り、純粋さが広がったのだ。頭から足までバラの美しさ、香り、純粋さ、喜びそのものになったと思えたら、愛しの〈スープリーム〉の足もとに自分をたむける用意が出来たと云うことなのだよ。 2 意識の河 瞑想するとき、次の三つのことを思い浮かべてごらん。 ⑴ 純粋さを自分全体に ⑵ 謙虚さを自分の全存在に ⑶ そして感謝の心を自分の手足すべてと細胞のすべてに 次に息を吸い、そして吐くとき、神聖な意識の河が、あなたの中を流れていると感じてみるのだ。だが決して無理強いしたり、力んではいけないよ。そしてこの神聖な意識が、〈源〉である〈スープリーム〉と常にワンネスを保ちながら流れて行くのを感じるがいい。 3  神に捧げる 息を吸うとき、神の不滅の資質を吸い込んでいると感じ、次に息を吐くときは、自分の無明を神に捧げていると感じてごらん。… »

集中の練習

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 集中の練習 1 「点」 集中の力を高めたいのなら、この練習をしてみるといい。まず冷たい水で顔と目をよく洗ってから、壁の目の高さに黒い点を描いてみる。およそ25センチほど離れたところで点に向かって立ち、それに集中する。数分が経ってから、息を吸うときにその息が本当にその点から来ているのだと感じ、そして点もまた息を吸っていて、あなたから息をもらっているのだと感じて見なさい。そこではあなたと黒い点と云う二人がいるのだと想像するのだ。あなたの息は点から来て、点の息はあなたから来ているのだと。 十分経ってから、強力な集中が出来ていれば、あなたの魂はあなたを離れ、壁の点に入っていったと感じることだろう。こうなったら、あなたは自分の魂と会話をしていると感じて見ること。魂は神を悟るために魂の世界にあなたをいざなって行き、あなたは体現<マニフェステーション>のために、魂を肉体の世界へ連れてきているのだ。このようにしてとても簡単に集中力を高めることが出来る。しかしこの方法は繰返し練習することが必要だ。練習すれば簡単に出来ることはたくさんあるが、練習無くして結果は出ないものだ。 2 ハートと云う友 指先やろうそくや他の物体に集中することが出来るように、ハートに集中することも出来る。目を閉じてもあるいは壁を見てもかまわない、その間ずっとハートをとても親しい友がいると思ってみなさい。するとこの思いは強い勢いを持ち始める。そしてあなたのすべての注意がそこに注がれたとき、あなたは通常の思考を超えて、集中の域に入ったと云うことになる。肉眼でスピリチュアル・ハートを見ることは出来ないが、注意の全てそこに向けることは出来る。すると徐々に集中の力がハートの中に入っていき、マインドの領域から完全に外へとあなたを連れていってくれるのだ。 あなたがまだ純粋さが豊富になくて、数えきれないほどの世俗的な欲望をハートにかかえているのなら、その場合、ハートに集中する前に純粋さを呼び起こさなければならない。純粋さとはハートの一番奥に、生きた聖シュラインなる社をもっている感覚のことだ。内的なシュラインの神聖な存在が感じられれば、そのときあなたは浄化される。そして、ハートでの集中がとてもうまく出来るようになるだろう。 3 生の鼓動 自分の鼓動に集中するのが好きなシーカーもいる。この練習をする場合、心脈がとぎれて死ぬのではないかと云う恐怖心をもたないこと。スピリチュアル・ライフで真の勇者になりたいのなら、鼓動に集中する練習を始めてもいい。これは終わりのない生に入ってゆくまたとない機会です。鼓動の音を一回聞くごとにすぐ、自分の無限な、不死の生を感じてみるがいい。 4 内面の花 この練習には花が必要だ。半眼で、花全体を何秒か見てごらん。集中している間は、自分がこの花そのものだと感じること。また同時にあなたのハートの一番奥でこの花が大きく育っているのを感じること。自分自身が花で、自分のハートの中で育っているのだよ。 そして徐々に、その花の花びら一枚に集中してみる。あなたが選んだこの花びらは、あなたの現実の存在の種子なのだ。数分経ってから、また花全体に集中し、これが〈普遍の現実〉だと感じること。こうして、最初は花びら、つまり自分の現実の種子に集中し、次は〈普遍の現実〉である花全体に集中すると云うことを、代わる代わる行ってみるといい。この練習中には、マインドに何の考えも入れてはいけない。マインドを完全に落ち着かせ、静かに、そして平静にすることが大切だ。 しばらくして、目を閉じ、今まで集中していた花を、あなたのハートの内側に見るようにしてみること。ちょうど肉眼で見える花に集中したのと同じように、目を閉じたままで、ハートの中の花に集中してみなさい。… »

真実になる ― 観想

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 真実になる ― 観想 集中は一点に注意を集める。瞑想は自分の意識を〈広大なもの〉まで拡大し、その意識の中へ入っていく。しかし観想では〈広大なもの〉自体になってゆき、その意識が他でもない自分のものとなる。観想は最も深い集中と、最も高いレベルの瞑想に同時にいることだ。瞑想で見え、感じた真実―観想ではその真実になっていき、完全にそれとひとつになる。神に集中しているときは、神を眼前に感じるかもしれないし、すぐとなりに感じるかも知れない。また瞑想しているときは、自分の内側に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉を感ぜずにはいられない。しかし観想では、自分自身が神であり、自分自身が〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉そのものだと云うことがわかる。 観想とは、意識的に無限で永遠な〈絶対的存在〉とひとつになることだ。観想において、〈創造者〉と創造物、愛する者と〈愛しい存在〉、そして知る者と知る対象はひとつになる。この瞬間われわれは神聖に愛する者であり、神が愛しの〈スープリーム〉となる。そして次の瞬間には役割が交代する。観想では〈創造者〉とひとつになり、宇宙全体を自分の内側に見ることが出来る。そのとき、自分自身の存在は最早なくなってしまう。何か、〈光明・平安・至福〉を力強く発しているものが見えるだけだ。 集中から得るメッセージ それは冴えた頭でいると云うこと 瞑想から得るメッセージ それは広大さ 観想から得るメッセージ それは分かちようのない一体感 瞑想と観想 ある特定の神聖な資質、たとえば〈光明・平安・至福〉に瞑想したり、抽象的に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉に瞑想したりすると、内側に特急列車が走っているのをいつも感じる。特急列車が動き続けている間に〈光明・平安・至福〉に瞑想しているのだ。マインドは〈無限〉の広大さの中で落ち着いて静かだが、それでもまだ動きがある。列車は止むことなくそのゴールに向かって走っている。われわれはゴールを心に描き、瞑想はそこへ連れて行ってくれる。 しかし、観想はちがう。観想では、宇宙全体、そしてもっとも遠いところにある〈ゴール〉が自分の奥深くにあると感じる。自分の中に宇宙全体とその無限の光明、平安、至福と真実を携えていると感じる。そのとき最早、思考も、形も、思いも存在しない。観想では全てが意識の流れ一つに合流してゆく。最高レベルの観想では自分が意識そのもの以外の何物でもないと感じる。 〈絶対的存在〉とひとつなのだ。しかし、最高レベルの瞑想では意識の中にダイナミックな動きが起こっている。内側の世界と外側の世界で何が起こっているのか全て分かっているが、それに影響されることはない。観想でも、瞑想と同じく、内側の世界と外側の世界で起こっていることに影響されることはない。しかしその違いは、自分の存在全体が宇宙と切っても切れないものなり、そしてその宇宙を自分の奥深くに携えていると云うことなのだ。… »

無限を垣間見る:瞑想

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 無限を垣間見る:瞑想 集中では、何か一つのものに注意の焦点を合わせる。しかし、瞑想では、同時にたくさんのことを見、たくさんのことに対処し、たくさんのことを歓迎する力が自分の内深くにあるのを感じる。瞑想では、自分自身を拡げようとする。あたかも鳥が羽を広げていくように、自分たちの有限の意識を拡げて宇宙の意識に入っていこうとする。そこには恐れもねたみも疑いも存在せず、ただ〈喜び・平安・神聖〉な力があるだけだ。 瞑想とは、意識的に大きくなり、〈無限〉となっていくこと。瞑想の時、実際何をしているかと云うと、空の、落ち着いて静寂なマインドに入っていき、そして〈無限〉そのものから栄養を得て育んでもらっているのだ。瞑想しているとき、望むことはたった一つ。それは神とひとつになること。今私は英語で話していて、あなたはそれを理解することが出来る。英語がよくわかるからだ。同様に、瞑想がうまく出来れば神とひとつになることが出来る。瞑想と云うのは神と会話をするために使う言葉のことなのだ。   平安の海 瞑想は海の底へいくようなもので、そこでは全てが静かで平安に満たされている。水面にはおびただしい数の波が出ているかもしれないが、その下にある海は影響を受けることはない。海底の一番深いところにあるのは静けさだけだ。瞑想を始めたら、まず自分の内的存在、真の存在、つまり海の底にたどり着こうとする。そこにいれば、外の世界から波が押し寄せてきても影響されることはない。恐れ、疑い、心配など世俗的な動揺はみんなただ洗い流されてしまう。われわれの内側には確固とした平安があるからだ。そこでは考えにも惑わされることはない。なぜならマインドが全く平安、静寂、一体感になっているからだ。考えが魚のように、跳ねたり泳いだりしても、あとを残すことはない。自分にとって一番高いレベルの瞑想をする時、われわれは自分を海だと感じ、海の生き物には影響されることはない。または自分は空で飛んでゆく鳥に影響されることもない。マインドが空で、ハートが無限の海。これが瞑想だ。 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より