師・グル・スピリチュアルマスターとは?

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~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


スピリチュアル・マスターが教え子のためにする最も大切なことは、教え子が自分の奥深くに、何か広大で無限なものを常に意識できるようにすること。そしてこの広大で無限な存在とは神に他ならない。

グルとは何か?

グルというのはサンスクリット語のことばで、「光をあてる者」という意味だ。光明を与える人をグルと呼ぶのだ。私自身の内的な悟りから言えることは、真のグルは一人しかいなく、それはスープリームだ。人間に真のグルはいない。でも、スープリームだけが真のグルとはいえ、ここ地球で時間は貴重なものだ。光明への旅路を助けてくれる人がいるなら、その人を自分のグルと呼んでもよい。

スピリチュアル・マスター(導師)、つまりグルというのは家族に例えると年長の子供のようなものだ。そしてシーカーというのは弟、妹たちのようなものだ。スピリチュアル・マスターは、弟、妹たちにお父さんつまり絶対なるグルがどこにいるのか教え、示してくれる。

真のグルは広大な青い空のどこかにいるのではない。私たちのハートの一番奥にいる。「もし私たちのハートの中にいるなら、スープリームを見つけ出すのに何故他の人の助けが必要なのですか。」と訊ねるかもしれない。この計り知れないほど貴重な宝物は確かに私たちのハートの中に存在するが、見ることも感じることもできない。だから助けが必要なのだ。グルつまり精神性の先生は、私たちの友だちであり、自分自身の宝物をどうやって見つけたらいいのか、教えてくれる。

今生きているグルを絶対に持つ必要はないが、強くお薦めする。あなたにはゴールがあるのがわかっていて、そのゴールにたどり着きたいと思っている。もし賢明なら、一番簡単に、安全に、そして効果的にゴールにたどり着くための道を示してくれる人の助けを受け入れることだろう。神を悟るのに何百年も何千年もかけたいのならば、スピリチュアル・マスターを持つ必要はない。しかし、もしなるべく早くゴールにたどり着きたいのなら、先生は絶対に必要だ。

師がいれば、内的成長をうながしてもらえる。スピリチュアル・マスターというのは、スピリチュアル・ライフでのあなたの家庭教師だ。家庭教師と普通の先生は大きく異なる。普通の先生は生徒の答案を見て、点数をつける。生徒に試験をさせて、通すか落とすかする。ところが家庭教師は、生徒がテストに合格できるように個人的に励まし、鼓舞してくれる。人生の旅路において、毎秒毎秒、「無知」からの試験が来る。だがあなたの家庭教師が、どうやったら簡単にその試験に通ることができるのか教えてくれる。なるべく早く至高なるものを悟れるようにシーカーを鼓舞しアスピレーションを高めてあげるのがスピリチュアル・マスターという先生の仕事だ。

この世の中では、何を習うにも最初は先生が必要だ。数学を勉強するには先生が必要だ。歴史を学ぶにも先生が必要だ。人生の他の事なら何でも、学ぶためには先生が必要なのに、瞑想に関してだけはちがうというのは道理に合わない。自宅で自習できるのにみんな大学に行くのは何故だろう。それは、ある分野について専門知識を持ったプロから教えてもらえると思うからだ。真の知識人と呼べる人で大学に行っていない人は、これまでいることはいるがほとんどいない。もちろん例外はある。どんなルールにも必ず例外というのはあるものだ。神は誰の中にもいる。だから、もしシーカーが人間の助けは必要ないと感じるなら、自分の力だけで試してみればいい。ただもしあなたが賢明で、つまずいたりただ歩くのではなく、ゴールに向かって走りたいと思うなら、グルの助けというのは計り知れないものがある。

今、私はロンドンにいるとしよう。ニューヨークが存在することはわかっていて、そこに戻らなければならないとしたら、そのためには何が必要だろうか? 飛行機とパイロットだ。飛行機が私をニューヨークに運んでくれるという事実をわかっているのに、パイロットなしではそこへはたどり着けない。同じように、あなたは神が存在するということは知っている。瞑想を通じて神にたどり着きたいのだが、誰かがそこまで連れて行ってくれないといけない。パイロットがニューヨークまで私を連れて行ってくれるように、誰かがあなたの奥深くにある神の意識へ連れて行ってあげないといけない。瞑想を通して自分自身の神性にどうやって入っていったらいいのか、誰かに教えてもらわないといけないのだ。

スピリチュアル・マスターはあなたのところに船をもってやってくる。そして、

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「おいで。黄金の岸辺に行きたいのなら、連れて行ってあげよう。それだけでなく、私の船に乗り込んだら、船上で歌ってもいい、踊ってもいい、眠っていたっていい。それでもあなたをその岸辺まで安全に運んであげよう。」と言う。もしあなたが誰の助けも欲しくないというなら、無知の海を一人で泳ぎ切りたいというなら、それはあなた自身の判断だ。ただそれだと何年、何人生かかることだろう? さらに、しばらく泳いだら疲労困憊してしまい、溺れてしまうかもしれない。

グルなしでは、あなたの前進はとても遅くなり、不確実になる。高い、上昇するような内的体験をしても、それをそんなに重要だとは思わないでしまうかもしれない。または疑いがあなたのマインドの中に入ってきて、「私はただの普通の人間なのに、あんな経験をするってことがあるのだろうか? 自分をごまかしているだけかもしれない。」と思うかもしれない。または友だちに自分が経験したことを話すと、「そんなの全部幻覚だよ!」と言われてしまうかもしれない。しかし内的現実とは何であるかわかっている人がいれば、あなたの内的経験はまさに本当だったと確信させてくれる。マスターはシーカーを励まし、インスピレーションを与えるのだ。そしてもしシーカーが瞑想で何か間違ったことをしていたら、矯正してくれる。

コースを取り終えたら、先生はもう要らない。歌を学びたかったら、プロの歌手のところに行って歌を学ぶ。踊りを習いたかったら、プロの舞踊家のところに行く。上手な歌い手、または踊り手になったら、もう先生のところに行く必要はない。スピリチュアル・ライフでも同じことだ。最初は助けが要るが、いったん本当の上級者になれば、もう誰の助けもいらない。

もしその人がマスターの真の弟子になったら、自分とマスターが二つの別々の存在だとは感じなくなる。グルは木のてっぺんにいて、自分は木の根元にいるのだ、などとは感じない。そうではなく、その弟子は、グルは自分自身の一番高い部分なのだと感じる。自分とグルはひとつで、グルというのは自分自身の一番高い、一番発達した部分なのだと感じるのだ。だから、真の弟子は自分の一番低い部分を自分の一番高い部分に委ねることに何の困難も感じない。献身的な弟子になることは、プライドにかかわることではないのだ。一番低い部分も、一番高い部分も、どちらも自分自身のものだとわかっているからだ。

あなたにインスピレーションをくれる人、それが本物の先生だ。

あなたを愛してくれる人、それが本物の先生だ。

あなたの背中を押してくれる人、それが本物の先生だ。

あなたを完成させてくれる人、それが本物の先生だ。

あなたを宝物のように大事にしてくれる人、それが本物の先生だ。

 

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より