瞑想は実用的か

正しい時に正しいことができる人を、実用的な人といいます。そのような人の外的な生活はとてもうまくいきます。しかし、どんなに賢くても、どんなに気をつ けていても、途方に暮れるときが誰にでもあります。どう言ったらいいのか、何をしたらいいのか分からない時や、正しいことを言ったり、したりしているにも かかわらず、すべてのことがうまく行かなくなってしまうことがあります。人生をコントロールできなくなるのです。心から何かをやりたいし、何かになりた い、でも、できない。 なぜこんなことが起こるのでしょうか?それは、外的な能力というものが、内的な〈気づき〉に常に左右されるからです。内的な生活で実用的であれ ば、すなわち祈りや瞑想をしていれば、内的な〈気づき〉を増やすことができます。内的な〈気づき〉があれば、永遠の真実や、終わりのない喜びに自由にアク セスでき、外的な生活もコントロールできるようになるのです。 わたしたちは常に、外側からではなく内側から成長します。植物は土の中の種から成長するのであって、その逆はありません。内的な生活は、常に《真 実》と神のメッセージを携えています。この内面の《真実》は種です。この種を発芽させて苗ができ、さらに木となれば、その木になった実を食べることができ ます。そして実を食べながら、この実は外的な世界に存在するものだけれど、源は内面の世界から来たものだと分かります。このように、内的な世界での受容 力、または能力が、外面の世界に表れてくるのが分かります。    ただ単に外的な世界で、どんなに長い間働いても、話をしても、何をしようと、《真実》に近づくことはできません。まず瞑想して、それから話し、行動 して初めて、実用的なことをすることができるのです。内面の世界での実用性は、外的な人生を導いていきます。その逆はありません。外的な人生における命の 息吹は、内的な生活から来たものでなければなりません。このようにしてこそ、本当に実用的になれるのです。 勇気を持って内的な生活に入ってみれば、内的な生活は実用的であり、現実的であり、自然であることがわかるでしょう。愛、光、平和、喜び、というも… »

瞑想の道の果実とチャクラ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 瞑想の道の果実 ゴールに通じる道はたくさんある。ある道は美しい花が道の両側にいくつも咲いていて、二本目の道は幾輪か咲いているだけ、そして三本目の道は一輪も咲いていないかもしれない。もし三人のシーカーが自分の魂の必要とするものと好みに合わせてそれぞれの道を行くなら、最終的には全員がゴールに到達するが、旅路の途中ではかなり違う経験をすることになるだろう。 経験のひとつひとつが悟りへの一歩だ。ひとつひとつの経験が自分への自信を高めてくれる。ひとつ経験するたびにあなたは励まされ、活力をもらい、さらに遠くまで進もうと思えるのだ。そしてすばらしい歓びも得られる。そのような経験をしている間、ゴールに向かって背中を押してくれる目に見えない導き手を自分の中に感じるかもしれない。 「ゴール」と呼ぶ果実を得る前に、あなたはいろいろな種類の実をたくさん味見したいと思うかもしれない。しかしゴールという果実を口にして初めて完全な満足を得ることができる。シーカーの中には、神を悟るという果実以外はなにもいらないと感じる人もいる。その人たちにとっていわゆるスピリチュアルな経験というのは全く必要ない。もしあなたに非常に早く走れる力があるなら、神を悟る前に何千という経験をする必要はない。神になっていく過程で広がっていく意識そのものがしっかりとした経験なのだ。 内的経験をしても、その経験が本物なのかどうかわからないときがあるかもしれない。しかしこれは、あなたに師がいない場合にのみ生じる問題だ。もし師がいるなら、それが実りある内的経験なのか、それとも自分自身を欺いているだけなのか、すぐに教えてもらえる。スピリチュアル・マスターなら疑いも躊躇もなく簡単にわかる。 もしあなたに師がいなくても、この問題を解決することはできる。ただスピリチュアル・ハートに集中するのだ。もしあなたのしている経験が本物なら、まるでハートに蟻が這い回っているかのような微かな感覚を覚えるはずだ。 あなたの経験が本物かどうか見分けるには他の方法もある。なるべくゆっくり静かに息を吸ってみよう。そして自分の中に純粋さを取り込んでいるのだと思うのだ。純粋さが糸のようにあなたの中に入ってきて、おへそのチャクラの周りに巻きついていくのを感じる。そのとき自分の経験に集中し、もしあなたのスピリチュアル・ハートがおへそのチャクラに入っていこうとしないのであれば、この経験は単に幻想にすぎないとわかる。しかしもしハートが喜んでおへそのチャクラの中に入っていくのであれば、その経験は絶対に正しく本物だと保証する。 または、何か経験をしている最中に、その経験そのものになっていけるかどうか二―三分ほど試してみたらいい。その経験そのものになっていくのは時間の問題だと感じるのであれば、その経験は本物だ。でももし、現実は別のところにあって、その経験そのものになっていくことは決してできないと思うのなら、本物の経験ではない。 ある経験をしている時に、内的生活と外的生活を分けようとしてみたらいい。外的生活は人間として必要なこと、地球上で必須とされることだ。内的生活はやはり必要な生活だが、これは神にとって必要なのであって、あなたが必要としていることではない。神にとって必須のことであって、あなたにとっての必須ではない。だから、神の必要としていることがあなたの経験の中であなたの経験を通して機能しているのか感じようとするのだ。神があなたの中であなたを通して自分を満たす必要があり、またそうしたいと思っているのか感じよう。このような感覚または悟りがあるのなら、あなたの経験は本物だと言える。真の経験というのは、あなたが誠実に内的生活を欲し、必要としたとき、そして神があなたの中であなたを通して内的生活を必要とし、欲した時にのみ得られる。このような理解に達したら、あなたの経験はすべて本物だ。本物でないはずがないのだ。 思考<マインド>を浄化する マインドは大体いつも純粋ではなく、上向きでない考えを持ってくる。ただでさえマインドは猜疑心、嫉妬心、偽善、恐怖心など神聖でない資質の餌食になっている。否定的なものはすべてまずマインドを攻撃する。ほんのちょっとの間そういう考えを遠ざけることができても、またそういうものがマインドの扉をノックする。マインドとはそういうものだ。それに対し、ハートはもっとずっと純粋なものだ。優しい気持ち、愛、献身、明け渡しなどの神聖な資質がすでにハートにはある。だからハートはマインドよりずっと純粋なのだ。たとえ恐怖心や嫉妬心がハートにあったとしても、ハートの良い資質が前面に出てくるのだ。 とはいってもバイタルが近くにあるので、ハートは完全に純粋ではないかもしれない。おへそのそばに位置する下位のバイタルが上ってきてハートの中心に触っていく傾向があるのだ。バイタルが近くにあって影響を与えるためハートが純粋でなくなる。でも少なくともハートはマインドとは違う。マインドは純粋でない考えに自ら扉を開け放してしまうのだから。ハートはマインドよりずっと良い存在だが、一番良いのは魂だ。魂は純粋さ、光、至福、神聖さだけの存在だ。 練習… »

ウパニシャッドの一つは瞑想には…、オーラ…、魂が体から出て…

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 我が魂は 人生の闘いを超え 無限を飛んでゆく火の鳥 ウパニシャッドの一つは、瞑想には三種類あると述べている。低いレベルの瞑想、微細な瞑想、そして超越瞑想だ。あなたの経験の場合は、このうちの最初の段階で起こっている。非常に高い瞑想をしているにもかかわらず、あなたは自分全体の存在がそこにあるとは感じられないのだ。霊的な意識においては非常に高い瞑想をしているのだが、完全に実りのあるものではない。内的家族のメンバー全員が参加してはいないからだ。 第二段階の瞑想では、自分の意識を完全に認識し、その中でその意識と完全に一つになる。今はただ意識という言葉を使っているだけだが、この段階になると、実際に意識が何なのか見えて、感じられるようになる。一瞬一瞬に、自分の中にある聖なる光の一筋、そしてすべてに行きわたる光が見えるようになる。この光が至高なるものとあなたを結んでいるのだ。この瞑想の段階では、あなたは地球と天国をつなぐ存在になる。 第三段階の最も高い瞑想は、超越瞑想だ。この段階では自分自身を「瞑想する者」と「瞑想それ自体」の両方として感じること、または見ることができる。この段階では見るものと見られるものが一緒になる。これが起こるのは最高の超越の意識でだけだ。それは、誘惑、フラストレーション、不安、恐れ、嫉妬、失敗といった自然の舞を超えたところにある。でもだからといって、低いレベルの瞑想では自分なりの最も深い瞑想には入れないということはない。入ることはできるが、その最高に深い瞑想を享受しているのはハートと魂だけだ。身体、バイタル、マインドは享受してはいない。それでこのレベルの瞑想を低いレベルの瞑想と呼ぶ。 Q: 魂が体から出てしまったという経験を瞑想中に一度したのですが。 A: 瞑想中に魂が体から出るということはある。場合によっては魂が本当にパワフルに前面に出てきて、身体の意識がなくなってしまうか覆い隠されてしまうか、または魂の光によって完全に光が当てられ、変革されてしまう。 Q: 瞑想中に見えるオーラについてお話ししてくれますか。 A: 人間は誰でもオーラがある。瞑想中に自分のオーラが見えるかもしれないが、集中している最中や寝ている間にも見えることがあるかもしれない。瞑想とオーラに直接のつながりはなく、ただひとつ言えるとすれば、瞑想することによってより平穏な意識に入っていき、そのような意識のときはオーラが見えやすい。 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より  

師・グル・スピリチュアルマスターとは?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より スピリチュアル・マスターが教え子のためにする最も大切なことは、教え子が自分の奥深くに、何か広大で無限なものを常に意識できるようにすること。そしてこの広大で無限な存在とは神に他ならない。 グルとは何か? グルというのはサンスクリット語のことばで、「光をあてる者」という意味だ。光明を与える人をグルと呼ぶのだ。私自身の内的な悟りから言えることは、真のグルは一人しかいなく、それはスープリームだ。人間に真のグルはいない。でも、スープリームだけが真のグルとはいえ、ここ地球で時間は貴重なものだ。光明への旅路を助けてくれる人がいるなら、その人を自分のグルと呼んでもよい。 スピリチュアル・マスター(導師)、つまりグルというのは家族に例えると年長の子供のようなものだ。そしてシーカーというのは弟、妹たちのようなものだ。スピリチュアル・マスターは、弟、妹たちにお父さんつまり絶対なるグルがどこにいるのか教え、示してくれる。 真のグルは広大な青い空のどこかにいるのではない。私たちのハートの一番奥にいる。「もし私たちのハートの中にいるなら、スープリームを見つけ出すのに何故他の人の助けが必要なのですか。」と訊ねるかもしれない。この計り知れないほど貴重な宝物は確かに私たちのハートの中に存在するが、見ることも感じることもできない。だから助けが必要なのだ。グルつまり精神性の先生は、私たちの友だちであり、自分自身の宝物をどうやって見つけたらいいのか、教えてくれる。 今生きているグルを絶対に持つ必要はないが、強くお薦めする。あなたにはゴールがあるのがわかっていて、そのゴールにたどり着きたいと思っている。もし賢明なら、一番簡単に、安全に、そして効果的にゴールにたどり着くための道を示してくれる人の助けを受け入れることだろう。神を悟るのに何百年も何千年もかけたいのならば、スピリチュアル・マスターを持つ必要はない。しかし、もしなるべく早くゴールにたどり着きたいのなら、先生は絶対に必要だ。 師がいれば、内的成長をうながしてもらえる。スピリチュアル・マスターというのは、スピリチュアル・ライフでのあなたの家庭教師だ。家庭教師と普通の先生は大きく異なる。普通の先生は生徒の答案を見て、点数をつける。生徒に試験をさせて、通すか落とすかする。ところが家庭教師は、生徒がテストに合格できるように個人的に励まし、鼓舞してくれる。人生の旅路において、毎秒毎秒、「無知」からの試験が来る。だがあなたの家庭教師が、どうやったら簡単にその試験に通ることができるのか教えてくれる。なるべく早く至高なるものを悟れるようにシーカーを鼓舞しアスピレーションを高めてあげるのがスピリチュアル・マスターという先生の仕事だ。 この世の中では、何を習うにも最初は先生が必要だ。数学を勉強するには先生が必要だ。歴史を学ぶにも先生が必要だ。人生の他の事なら何でも、学ぶためには先生が必要なのに、瞑想に関してだけはちがうというのは道理に合わない。自宅で自習できるのにみんな大学に行くのは何故だろう。それは、ある分野について専門知識を持ったプロから教えてもらえると思うからだ。真の知識人と呼べる人で大学に行っていない人は、これまでいることはいるがほとんどいない。もちろん例外はある。どんなルールにも必ず例外というのはあるものだ。神は誰の中にもいる。だから、もしシーカーが人間の助けは必要ないと感じるなら、自分の力だけで試してみればいい。ただもしあなたが賢明で、つまずいたりただ歩くのではなく、ゴールに向かって走りたいと思うなら、グルの助けというのは計り知れないものがある。 今、私はロンドンにいるとしよう。ニューヨークが存在することはわかっていて、そこに戻らなければならないとしたら、そのためには何が必要だろうか? 飛行機とパイロットだ。飛行機が私をニューヨークに運んでくれるという事実をわかっているのに、パイロットなしではそこへはたどり着けない。同じように、あなたは神が存在するということは知っている。瞑想を通じて神にたどり着きたいのだが、誰かがそこまで連れて行ってくれないといけない。パイロットがニューヨークまで私を連れて行ってくれるように、誰かがあなたの奥深くにある神の意識へ連れて行ってあげないといけない。瞑想を通して自分自身の神性にどうやって入っていったらいいのか、誰かに教えてもらわないといけないのだ。 スピリチュアル・マスターはあなたのところに船をもってやってくる。そして、 「おいで。黄金の岸辺に行きたいのなら、連れて行ってあげよう。それだけでなく、私の船に乗り込んだら、船上で歌ってもいい、踊ってもいい、眠っていたっていい。それでもあなたをその岸辺まで安全に運んであげよう。」と言う。もしあなたが誰の助けも欲しくないというなら、無知の海を一人で泳ぎ切りたいというなら、それはあなた自身の判断だ。ただそれだと何年、何人生かかることだろう? さらに、しばらく泳いだら疲労困憊してしまい、溺れてしまうかもしれない。 グルなしでは、あなたの前進はとても遅くなり、不確実になる。高い、上昇するような内的体験をしても、それをそんなに重要だとは思わないでしまうかもしれない。または疑いがあなたのマインドの中に入ってきて、「私はただの普通の人間なのに、あんな経験をするってことがあるのだろうか? 自分をごまかしているだけかもしれない。」と思うかもしれない。または友だちに自分が経験したことを話すと、「そんなの全部幻覚だよ!」と言われてしまうかもしれない。しかし内的現実とは何であるかわかっている人がいれば、あなたの内的経験はまさに本当だったと確信させてくれる。マスターはシーカーを励まし、インスピレーションを与えるのだ。そしてもしシーカーが瞑想で何か間違ったことをしていたら、矯正してくれる。 コースを取り終えたら、先生はもう要らない。歌を学びたかったら、プロの歌手のところに行って歌を学ぶ。踊りを習いたかったら、プロの舞踊家のところに行く。上手な歌い手、または踊り手になったら、もう先生のところに行く必要はない。スピリチュアル・ライフでも同じことだ。最初は助けが要るが、いったん本当の上級者になれば、もう誰の助けもいらない。… »

瞑想:人に奉仕する

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 世の中を変えようとしないこと きっと失敗する 代わりに世の中を愛してごらん すると、世の中はどんどん変わってゆく 果てしなく、いつまでも 瞑想:人に奉仕する Q: 瞑想するためには、まわりを遮断して独りきりになり、人を拒絶すべきでしょうか? A: 人類とは神の分かち難い一部分なのだ。人を拒絶して、どうして神聖さを受け入れることが出来るだろうか?われわれはこの世を、今あるがままに受け入れなければならない。受け入れずに、どうやって変革することが出来るだろうか?陶芸家が粘土の塊に触れずに、どうやって壺の形にすることが出来る?瞑想する者は人類の中で神聖な勇者のように振舞わなければならないのだよ。 現在の人類は完成には程遠いところにいる。しかしわれわれもまた、その人類の一部なのだ。自分の体の一部のような兄弟姉妹をどうやって見捨てることが出来る? もし見捨ててしまったら、世の中でうまく行動する自分自身の能力を狭めてしまうだけなのだ。人類を自分のものとして受け入れないといけない。もし自分が他の人にインスピレーションを与える立場にいるなら、もし他の人より一歩進んだところにいるなら、それは後の続く者たちの中の、神聖な存在に奉仕する機会を与えられていると云うことなのだ。 あなたがたは世の中に対峙した上で、世の中で〈至高なるもの〉を悟る必要がある。逃避の人生を送ってはいけない。逃げるのは誰だろう? 怖がっていたり、またはひどく悪いことをしてしまったと思っている者だ。われわれは何も悪いことはしていない。だから周りを怖がる必要はない。世の中を怖がっていたら、すべてに対して恐れを抱いてしまう。今われわれに見えるのは、周りにある巨大で不完全な世の中だ。自分を守るためにそこから逃げようとしている。だが、現在の世の中よりもはるかに恐るべき敵は、まさに自分自身のマインドに他ならないのだ。たとえ洞窟にこもったとしても、マインドから逃げることなど出来っこない。いつも自分に付いてくる。しかもこのマインドは、〈不安・嫉妬心・混乱・疑い・恐れ〉その他の神聖でない資質で溢れている。このマインドのせいで、人生の戦場に留まらざるをえないようになっているのだよ。もしこの世に生きているうちにマインドを克服できないのであれば、単に日常の世界から肉体を遠ざけることが何の役に立つと云うのだ。 瞑想するのにヒマラヤの洞窟に入っていく必要もないし、入って行っていけない。人類の中にある神聖な存在に献身することによって、世の中の実相を変革しようとし なければならないのだ。 瞑想は逃避ではない。この地上で神聖な〈真実〉を、最高に体現するために世の中を変革すると云うビジョンのもと、世の中全体を受け入れること大切だ。自分の内的〈平安〉と前進のためだけに瞑想したい者や、世の中に何も捧げようとしない者は自分勝手な連中だ。また一方で、世の中に何かを捧げたいけれど、捧げるに値する何かを得るために瞑想することはしたくないと云う者もいるが、これは実に愚かなことだ。何も持っていないのに、どうしてそれを捧げることが出来る?… »

瞑想:現実的な問題解決法

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 瞑想は現実的なのだろうか? ある人が日常生活で正しいタイミングで正しいことをする時、その人のことを分別があって現実的だと云う。その人は他の人にだまされないように、また社会生活がスムーズに運ぶように、ある一定のやり方で考え、行動をする。しかし、たとえどんなに賢く、どんなに誠実で、どんなに意識して生活していようと、現実社会の生活で途方にくれてしまう場合がある。 「何を言っていいかわからない。」 「何をしていいかわからない。」 「どう振舞っていいかわからない。」 または、正しいことを言ったり、行ったりしているにもかかわらず、すべてが悪い方へ行ってしまうことがある。 この社会の現実経験とどう付合っていったらいいかわからず、人生を管理することができないのだ。心から何かをしたい、または何者かになりたいのに、出来ないのだ。 なぜこのようなことが起こるのだろう? それは、われわれの外的な力は、常に内的な気づきの限界によって制限されているからなのだよ。しかし内的生活で現実的であれば、つまり祈り、瞑想すれば、限りない〈内的気づき〉を持つようになる。内なる気づきがある人は、無限の真実と永遠に続く喜びに自由にアクセスでき、外的生活を簡単にコントロールすることが出来る。 精神生活<インナーライフ>は常に真実<リアリティ>と神のメッセージを運んでいる。〈真実〉のあるところには〈種〉がある。〈種〉に芽を出し、木になってもらうことにしょう。木に実がなるとき、内面世界の力が現実世界で体現されるのが見える。常にわれわれは、外側からではなく内側から成長してゆくのものだ。 社会生活<アウターライフ>で何をしようが、何を言おうが、〈真実〉の光明に近づいてはいない。しかし、まず瞑想し、それから行動し、話すのなら、正しいことをし、正しいものになって行く。精神生活<インナーライフ>と内的現実<インナーリアリティ>が社会生活を導いていかねばならない。その逆ではないのだ。 社会生活の命の息吹は精神生活から来る必要がある。内的現実が社会生活に入って行かねばならないのだ。そうして初めて、社会生活で本当に現実的になることが出来るのだ。 Q&A… »

良い瞑想とは?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より   スピレーションで行う努力は いつも 満足のいく結果をもたらす 時には時間がかかるかもしれない しかし、 間違いなく、結果がついてくる  良い瞑想とは? 求道者<シーカー>からよく質問されるのが次の三つだ。 1  自分が果たして正しい瞑想をしているのか? 2  それとも自分をごまかしたり幻覚を見たりしているだけなのか?… »

質問:集中・瞑想・観想

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より Q: 座って瞑想を始めるのですが、マインドを静めておくのにひどく集中しなければならず、なかなか内なる自己に触れることが出来ないのです。 A: あなたは気づいていないかもしれないが、それはごく正常なことだ。マインドを落ち着かせ、静かにしようとしていると云うことは、集中していると云うことにほかならない。なぜなら集中では思考と感情をコントロールし、そして集中から瞑想への道が切り開かれなくてはならないからだ。瞑想するには、感情的生活と落ち着きのないマインドは、すでにある程度訓練していないとだめだ。マインドを悩ませる思考をすべて追い払うのに成功したら、遅かれ早かれあなたの内的存在が前面に出てくることになる。それは丁度覆っている雲を一掃する灼熱の太陽のようなものだ。今のところ内なる太陽は思考、疑い、恐れなどといった雲に覆われてしまっている。この雲を追い払うことが出来れば、内的な自己が目の前で輝き、明るく光を放っているのがわかるようになる。 ♦ Q: 集中しているのか瞑想しているのかどうしたらわかるのですか? A: 集中の場合にはとてつもない勢いがある。それは丁度的に向かって飛んでゆく矢のようなものだ。勢いのある力から活力をもらっていると感じるのなら、それは集中の結果だ。一方瞑想では、平安と広大な感覚がまわりすべてにあり、特にマインドにそれを感じる。自分の奥深くにどこまでも広がる〈平安・光明・至福〉の海を感じるなら、これは瞑想によるものだ。瞑想とは平安、静寂、そして広大さだからだ。集中と同じく勢いもあるが、その勢いは輝く光で満たされている。集中の場合には至高で輝く光は必要ないし、また殆どそのような光もない。 また集中はすぐに結果を欲しがる。ゴールに到達するためなら何でもする覚悟が出来ている。瞑想は意のままになる時間が無限にあると感じる。これは過ぎゆく時間を軽視している訳ではなく、過ぎゆく時に価値を置きつつも、過ぎゆく時の中に永遠の時が見えるのだ。だから、瞑想の内側には無限の平安があるのだ。 どちらの経験の方が好きだなどと、えり好みしてはいけない。神<スープリーム>〉があなたの中であなたを通して集中したい時には集中になるし、あなたの中であなたを通して瞑想したい時には、瞑想が起こるのだから。 ♦ Q: 瞑想の仕方を一度学んだら、集中の練習はもうしないのでしょうか? A: 一般的なルールとして、スピリチュアルな生活を始めようとしているシーカーは、少なくとも何ヶ月かは集中から始めるがいい。集中を学ぶと、瞑想はやりやすくなる。しかし、瞑想が出来るようになっても、毎日の瞑想を始める前に数分間集中するのはよいことだ。集中すると云うことは、走る前にトラックの障害物を取り除くランナーのようなもので、トラック障害物がなければ、安全に速く走ることが出来る。そうなると、あなたは内なる特急列車のようになり、終点<ゴール>めがけてまっしぐらに進んでゆくことが出来る。 ♦ Q: 瞑想が終わったら、どうやって観想にいけばいいのですか? A: 観想は修行を何年も経た、スピリチュアルな人生でもずっと上級者になってから出来るようになるものだ。観想とは内的なはしごの最上段ともいえる。スピリチュアルなアスピラントの中で、ごく限られた観想であっても、それが出来る者はとてもまれにしかいない。またそれでさえ、自分の思う通りに出来るものではないのだよ。… »

スピリチュアル・ハート——平安の住みか

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より 幸せになりたいのかな? だったら マインドの力を過大評価せず ハートの光を過小評価しないこと ハートと魂 ハートで瞑想すると云うことは、魂がいる場所で瞑想すると云うことだ。確かに、魂の光と意識は体全体に広がってはいるが、魂には大体いつもいる場所と云うのがあり、それがハートの中なのだ。光を受け取りたいのなら、魂から受け取る必要がある。それはハートの中にあるのだ。何が欲しくて、どこに行けばそれがあるのか分かっているなら、そこへ行くのは当然のこと。さもなければまるで、金物屋に夕飯のおかずを買いに行くようなものだ。(笑) マインドから得られるものとハートから得られるものには、比べものにならないくらい差がある。マインドには限界があり、ハートには限界はないからだ。あなたの内側奥深くには無限の平安<ピース>・光明<ライト>・至福< ブリス>〉がある。限られた量のものを手に入れるのはたやすいことだ。マインドでの瞑想がそれにあたる。しかしハートで瞑想すれば、もっと限りなく、多くののものを得ることが出来る。仮にあなたが二つの会社で働くとする。一方では二百ドル稼ぎ、もう一方では五百ドルを稼ぐことが出来る。ちょっと考えれば、一方の会社で時間を無駄にすることスピリチュアル・ハートはないだろう? マインドに完全に頼っている限り、まずあなたは瞑想に失望してしまうことは見に見えている。マインドはすべてを複雑にし、あなたを混乱させてしまうからだ。普通の人は複雑なことが智恵だと思っているが、スピリチュアルな人は神がとてもシンプルだと云うことを知っている。複雑さではなく、シンプルさの中に本当の真実はあるものだ。 そうだからと云って、マインドがいつも悪者だと言っているわけではない。いつも悪者だとは限らないのだが、マインドには限界がある。マインドから得られるものは、せいぜいよくてインスピレーションなのだが、それ自体限界がある。真のアスピレーションを得るためには、ハートへ行かなければならない。アスピレーションはハートからやって来る。そこは魂の輝きがいつもあるところだからだ。ハートで瞑想すればアスピレーションを得るだけでなく、魂の無限の〈平安・光明・至福〉を得ることになり、あなたのアスピレーションは初めて満たされる。   Q: 瞑想中にスピリチュアル・ハートにたどり着くにはどうしたらよいのですか? A: スピリチュアル・ハートは胸部の真ん中にある。あなたが強力なアスピレーションがあるときには、スピリチュアル・ハートを感じることが出来るだろう。またそれは第三の目で見ることも出来る。スピリチュアル・ハートで瞑想するのが難しければ、心臓そのものに集中してもよい。しかし数ヶ月または一年ほど経つうちに、肉体の心臓の中には神聖な〈こハートころ〉があり、そして神聖なハートの中には魂<ソウル>があるのを感じることが出来るはずだ。これが感じられたら、スピリチュアル・ハートで瞑想を始めることが出来る。… »

質問:瞑想中に創造的な考えが浮かんだら…期待するの

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より マインドは質問の洪水だ それに答えられる師はただ一人しかいない 一体それは誰だ? それこそは静寂を愛する あなたのハートなのだ Q: 瞑想中に創造的な考えが浮かんだら、それを追っていった方がいいですか?それともハートの中で、ただそれを感じようとした方がよいのでしょうか? A: 前向きな考えが浮かんだら、それはただちに神<スープリーム>からの祝福だと思って間違いない。しかし、それがどんな種類のインスピレーションなのかわかっていないといけない。明るく照らされるようなインスピレーションであるなら、また何かとてもよいことをするための、創造的なインスピレーションであるなら、追っていくといい。創造的な考え、より高いゴールを示してくれる考えには何でも従った方がいいだろう。あるインスピレーションが、あなたの人生に何か新しいものをもたらしてくれ、あなたの人生を変革してくれるのであれば、そのときには追いかけていくべきだ。 あなたがたはインスピレーションはマインドの中だけに存在し、アスピレーションはハートの中だけに存在すると感じているかもしれないが、アスピレーションがマインドにあることもあれば、インスピレーションがハートにあることもある。インスピレーションがアスピレーションにやってくることもあり、その反対もありえる。しかし、そう云うインスピレーションは、とても高い種類のものでなくてはならない。そうでなければそれは全く瞑想の助けにはならない。瞑想中に、おいしいクッキーを焼こうと云うインスピレーションが湧いたとしても、これは時間の無駄でしかない(笑) 明るく輝くインスピレーションなら、「その創造的なアイデアがまさに自分自身の進歩なのだ」と受け止めるがいい。なぜならその創造的なアイデアは、この物質世界で体現されたいと望む別世界から来た創造物なのだから・・・・ だからその場合には瞑想の後でその考えを書き留めて置くほうがいい。そしてそれを後でさらに深めてゆくことになる。   Q: 瞑想するとき、何か特定のものを期待するのはいけないことなのですか? A: 瞑想中はただあなたの内的、外的な存在をすべて神<スープリーム>〉に投げ出すようにすること。何も考える必要はない。ただ、光明<ライト>・平安<ピース>・至福<ブリス>・力<パワー>の海に自分を投げ入れるのだ。 しかし、何かある特定の神聖な資質や結果を期待してはいけない。それは自分のことも、神<ゴッド>のことも縛っていることになってしまうからだ。なぜなら、人の期待は無限ではなく、非常に限界があるからだ。期待するとただちにマインドが働き、受容力がとても限られてくる。でも何も期待しなければ、受容力の問題は神<ゴッド>の問題となる。そのとき神は確実に、あなたに全てを極限なく与え、と同時にあなたの中に与えるものを受け取るのに十分な受容力を作り上げてくれるのだ。… »

質問:どうやって瞑想するのですか?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より  Q: どうやって瞑想するのですか? A:  瞑想には二つの方法がある。一つは思考<マインド>を静かにさせるやり方だ。ふつうの人は、思考を静めてしまったら馬鹿になってしまうのではないかと思っている。思考がなくなることで、すべてが失われてしまうのではないかと思っているのだ。しかしスピリチュアルな見地ではこの考えは間違っている。スピリチュアル・ライフでは、思考を静かにさせると、そこに何か新しい創造、新しい神への約束が芽生えるのがわかる。今はまだ、神との約束を果たしてはいない。まだ、自分の存在を完全に神に捧げてはいるわけではない。しかし思考を静めることが出来れば、神を喜ばせ、満たすことが出来るようになる。もう一つの方法は、こころ<ハート>を空っぽにすること。今の時点では、ハートは純粋でない生バイタル 命エネルギーに包まれている。その純粋でない生命エネルギーによって引き起こされた、感情的な混乱と問題でいっぱいだ。ハートは器にしか過ぎない。今、この器は、われわれを縛り、制限する神聖ではないもので満たされている。が、もしこのハートの器を空にすることが出来れば、誰かがやってきて、神聖な〈平安<ピース>・光明<ライト>・歓び<ディライト>で満たしてくれる。そしてわれわれはくびきから解放され自由になる。ハートの中の無<イグノランス>明を取り去って空っぽにすると、今度は神の〈叡智の光〉で満たされることになる。 ♦ Q: 瞑想が最も高いところにある真実なのですか? A: ビギナーにとっては、瞑想が最も高いところにある真実だといえるだろう。しかし上級者になると、瞑想は至高の真実へ導いてくれるものにすぎないことが判る。もし今まで無明の世界で生きてきて、わずか一分でさえ祈ったり瞑想したりしたことがないのであれば、当然その人にとっては瞑想が、自分の意識が到達しうる最も高いところにある真実となる。しかし何年か瞑想を続けると、瞑想それ自体は至高の真実ではないのだと判る。至高の真実と云うのは、瞑想の道を歩みながら実現し、あなたがなってい,,,,,,,ものなのだ。 ♦ Q: スピリチュアルに進化し、悟りの境地に達したら、瞑想の焦点は変わりますか? A: 悟りの境地に達した後は、神の探求者<シーカー>がするような瞑想はもう必要ない。悟りの境地へ行くとき、つまり神<スープリーム>と一つになるとき、その人は常に瞑想していることになるからだ。神の探求者が〈神〉を悟った後に瞑想するのは、何か達成しようとか、何かを越えようとかするためではない。人類のために平<ピース>安・光<ライト>明・至<ブリス>福を下ろしてくるため、または他の人たちの意識を目覚めさせるために瞑想をするのだよ。 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より リンク… »