瞑想は実用的か

meditation class in tokyo 瞑想 東京 ワークショップ正しい時に正しいことができる人を、実用的な人といいます。そのような人の外的な生活はとてもうまくいきます。しかし、どんなに賢くても、どんなに気をつ けていても、途方に暮れるときが誰にでもあります。どう言ったらいいのか、何をしたらいいのか分からない時や、正しいことを言ったり、したりしているにも かかわらず、すべてのことがうまく行かなくなってしまうことがあります。人生をコントロールできなくなるのです。心から何かをやりたいし、何かになりた い、でも、できない。
なぜこんなことが起こるのでしょうか?それは、外的な能力というものが、内的な〈気づき〉に常に左右されるからです。内的な生活で実用的であれ ば、すなわち祈りや瞑想をしていれば、内的な〈気づき〉を増やすことができます。内的な〈気づき〉があれば、永遠の真実や、終わりのない喜びに自由にアク セスでき、外的な生活もコントロールできるようになるのです。
わたしたちは常に、外側からではなく内側から成長します。植物は土の中の種から成長するのであって、その逆はありません。内的な生活は、常に《真 実》と神のメッセージを携えています。この内面の《真実》は種です。この種を発芽させて苗ができ、さらに木となれば、その木になった実を食べることができ ます。そして実を食べながら、この実は外的な世界に存在するものだけれど、源は内面の世界から来たものだと分かります。このように、内的な世界での受容 力、または能力が、外面の世界に表れてくるのが分かります。
瞑想   ただ単に外的な世界で、どんなに長い間働いても、話をしても、何をしようと、《真実》に近づくことはできません。まず瞑想して、それから話し、行動 して初めて、実用的なことをすることができるのです。内面の世界での実用性は、外的な人生を導いていきます。その逆はありません。外的な人生における命の 息吹は、内的な生活から来たものでなければなりません。このようにしてこそ、本当に実用的になれるのです。
勇気を持って内的な生活に入ってみれば、内的な生活は実用的であり、現実的であり、自然であることがわかるでしょう。愛、光、平和、喜び、というも のは神聖であり、まったく正常なことなのです。内的な世界が提供してくれるものを、外的な世界に持ってくることができれば、外的な世界も神聖で、正常で、 実用的で、満足いくものとなるのです。
-シュリ・チンモイ・喜びの翼 P25〜

 

瞑想の道の果実とチャクラ


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想の道の果実

ゴールに通じる道はたくさんある。ある道は美しい花が道の両側にいくつも咲いていて、二本目の道は幾輪か咲いているだけ、そして三本目の道は一輪も咲いていないかも知れない。もし三人の求道者<シーカー>が自分の魂の必要とするものと好みに合わせて、それぞれの道を行くなら、最終的には全員がゴールに到達する。しかし、旅路の途中ではかなり違う経験をすることになる。

経験の一つ一つが悟りへの一歩となる。一つ一つの経験が自分への自信を高めてくれる。一つ経験するたびにあなたは励まされ、活力を得、さらに遠くまで進もうと心が燃え立つ。そして、すばらしい歓びさえ得ることが出来る。そのような経験をしている間、あなたは、ゴールに向かって背中を押してくれる目に見えない導き手を自分の中に感じることだろう。〈ゴール〉と呼ぶ果実を得る前に、あなたはいろいろな種類の実をたくさん味見したいと思うかも知れないね。しかしゴールという果実を口にして初めて、完全な満足を得ることが出来る。シーカーの中には、神を悟るという果実以外は、何もいらないと感じる者もいる。その人たちにとって、いわゆるスピリチュアルな経験というのは全く必要ない。もしあなたに非常に早く走れる力があるなら、神を悟る前に何千という経験をする必要は全くない。神になっていく過程で広がっていく意識それ自体が、しっかりとした経験以外の何ものでもないからだ。

内的経験をしても、その経験が本物なのかどうかわからない時があるかも知れない。しかしこれは、あなたにマスターがいない場合にのみ生じる問題なのだ。もしマスターがいるなら、それが実りある内的経験なのか、それとも自分自身を欺いているだけなのか、すぐに教えてもらうことが出来る。スピリチュアル・マスターなら疑いも躊躇もなく簡単にわかるからだ。

pink-rose-400x240もしあなたにマスターがいなくても、この問題を解決することは出来る。ただひとえに、スピリチュアル・ハートに集中することだ。もしあなたの経験が本物なら、まるでハートに蟻が這い回っているかのような微かすかかな感覚を覚えるはずだ。 あなたの経験が本物かどうか見分けるには他の方法もある。出来るだけゆっくり、そして静かに息を吸い込んでごらん。そして自分の中に純粋さを取り込んでいるのだと思うこと。純粋さが糸のようにあなたの中に入ってきて、臍のチャクラの周りに巻きついていくのが感じられるはずだ。その時自分の経験に集中し、もしあなたのスピリチュアル・ハートが臍のチャクラに入っていこうとしないのなら、この経験は単に幻想にすぎないことがわかる。しかし、もしハートが喜んで臍のチャクラの中に入っていくのなら、その経験は絶対に正しく紛れもない本物だと保証する。

または、何か経験をしている最中に、その経験そのものになっていけるかどうか、ニ~三分ほど試してみるといい。その経験そのものになっていくのが、時間の問題だと感じるようなら、その経験は本物だ。しかし、もし、現実は別のところにあって、その経験そのものになっていくことは決して出来ないと思われるようなら、それは偽者だ。
ある経験をしている時に、内インナーライフ的生活と外的生活<アウターライフ>を分けてみるといい。外的生活は人間として必要なこと、この世で必須とされることだ。内的生活はやはり必要な生活だが、これは神にとって必要なのであって、あなたが必要としていることではない。神にとって必須のことなのであって、あなたにとっての必須ではない。だから、神が必要としていることが、あなたの経験の中であなたの経験を通して機能しているのか感じて見ることだ。神があなたの中であなたを通して御自分を満たす必要があり、またそうしたいと思っておられるのを感じて見るのだ。

このような感覚、または悟りがあるのなら、あなたの経験は本物だと言える。真の経験というのは、あなたが誠実に内的生活を欲し、必要としたとき、そして神があなたの中であなたを通して内的生活を必要とし、欲した時にのみ得られるものだ。このような理解に達したなら、あなたの経験はすべて本物だ。紛れもなく本物なのだよ。

flower-of-light3思考<マインド>を浄化する

思考<マインド>はほとんどいつも純粋ではなく、上向きでない考えを持ってくる。ただでさえマインドは猜疑心、嫉妬心、偽善、恐怖心など神聖でない資質の餌食になっている。否ネガティブ定的なものはすべてまずマインドを攻撃する。ほんのちょっとの間そう云う考えを遠ざけることが出来たとしても、また同じものがマインドの扉をノックする。マインドとはそう云うものなのだ。それに対し、こころ<ハート>はもっとはるかに純粋だ。優しい気持ち、愛、献身、明け渡しなどの神聖な資質がすでにハートにはある。だからハートはマインドよりずっと純粋なのだ。たとえ恐怖心や嫉妬心がハートにあったとしても、ハートが持つ良い資質が前面に出てくる。

しかしそうはいっても生バイタル 命エネルギーが近くにある以上、ハートは完全に純粋ではないかもしれない。へマニプラチャクラそあたりにある下位の生バイタル 命エネルギーが上ってきては、ハートの中心に触っていく傾向があるからだ。バイタルの影響を受けてハートが純粋でなくなってしまうことがある、しかし少なくともハートはマインドとは違う。マインドは煩悩に自ら扉を開け放してしまうものだからだ。 ハートはマインドよりずっと良い存在だが、最もすぐれているのは魂<ソウル>だ。なぜなら魂は、純粋さ、光明、至福、神聖さだけで出来ている存在だからだ。

lotus-100x150練習 – 受容力のある場所 – (アジナチャクラ)

受容力をすぐに得る一つの方法は、出来るだけ早く何度も何度も〈スープリーム〉と心の中で繰り返すことだ。そのためには、まず体の中で一つ場所を選ぶことが必要だ。例えばそれを第三の目<アジナチャクラ>にして見よう。そして、その場所に意識を保ちながら、〈スープリーム〉とできるだけ早く繰り返してごらん。それから今度は別の場所を選び、同じようにやってみる。体の上部から下部へ行く方が下部から上部へ向かうよりも望ましい。集中する場所はエネルギーの中心(チャクラ)でなくてもかまわない。どこでも自分の好きな場所でいい。自分の体の中から七ヵ所選んでこれができたら、受容力がある場所がどこか一か所は絶対に見つかるだろう。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

Places of concentration in meditation (チャクラ)

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ウパニシャッドの一つは瞑想には…、オーラ…、魂が体から出て…


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


我が魂は
人生の闘いを超え
無限を飛んでゆく火の鳥

 

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ウパニシャッドの一つは、瞑想には三種類あると述べている。低いレベルの瞑想、微細な瞑想、そして超越瞑想だ。あなたの経験の場合は、このうちの最初の段階で起こっている。非常に高い瞑想をしているにもかかわらず、あなたは自分全体の存在がそこにあるとは感じられないのだ。霊的な意識においては非常に高い瞑想をしているのですが、完全に実りのあるものではない。なぜなら内的家族のメンバー全員が参加してはいないからだ。

第二段階の瞑想では、自分の意識を完全に認識し、その中でその意識と完全に一つになる。今はただ〈意識〉という言葉を使っているが、この段階になると、実際に意識が何なのか見えて、感じられるようになる。一瞬一瞬に、自分の中にある聖なる光の一筋、そしてすべてに行きわたる光が見えるようになる。この光が〈至高なるもの〉とあなたを結んでいるのだ。この瞑想の段階では、あなたは地球と天国をつなぐ存在になる。

第三段階の最も高い瞑想は、超越瞑想だ。この段階では自分自身を〈瞑想する者〉と〈瞑想それ自体〉の両方として感じ、または見ることが出来る。この段階では見るものと見られるものが一つになる。これが起こるのは最高の〈超越の意識〉においてだけなのだ。それは、〈誘惑・フラストレーション・不安・恐れ・嫉妬・失敗〉といった自然の舞を超えたところにある。しかしだからといって、低いレベルの瞑想では自分なりの最も深い瞑想には入れないということはないのだよ。入ることは出来ても、その最高に深い瞑想を享受しているのはハートと魂だけで、ボディ、バイタル、マインドは享受してはいない。だからこのレベルの瞑想を低いレベルの瞑想と呼んでいるのだ。

Q: 魂が体から出てしまったという経験を瞑想中に一度したのですが。

A: 瞑想中に魂が体から出るということはある。場合によっては魂が本当にパワフルに前面に出てきて、身体の意識がなくなってしまうか覆い隠されてしまうか、または魂の光によって完全に光が当てられ、変革されてしまうのだ。

Q: 瞑想中に見えるオーラについてお話し下さいますか?

A: 人間は誰でもオーラがある。瞑想中に自分のオーラが見えるかも知れないが、集中している最中や、睡眠中にも見えることがあるかも知れない。瞑想とオーラに直接のつながりはない。ただ一つ言えるとすれば、瞑想することによってより平穏な意識に入って行き、そのような意識のときはオーラが見えやすいものだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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師・グル・スピリチュアルマスターとは?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


スピリチュアル・マスターが教え子のためにする最も大切なことは、
教え子が自分の奥深くに、
何か広大で無限なものを常に意識出来るようにしてあげること
そしてこの広大で無限な存在とは神に他ならない

 

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グルとは?

グルというのはサンスクリット語のことばで、「光をあてる者」という意味だ。〈光明〉を与える人をグルと呼ぶ。私自身の内的な悟りから言えることは、真のグルは一人しか存在しない、それは〈スープリーム〉なのだ。人間に真のグルはいない。しかし、確かに〈スープリーム〉だけが真のグルとはいえ、ここ地球では時間は貴重なものだ。〈光明〉への旅路を助けてくれる人がいるなら、その人を自分のグルと呼んでもよい。霊性の師<スピリチュアル マスター>、つまりグルというのは家族に喩えると年長の子供のようなもので、そして求道者<シーカー>というのは弟や妹たちのようなものだ。スピリチュアル・マスターは、弟や妹たちに〈父親〉つまり〈絶対なるグル〉がどこにいるのか教え、示してくれる。

真の〈グル〉は広大な青い空のどこかにいるのではなく、われわれのハートの一番奥にいるのだ。こう云うとあなたは、「もしわれわれのハートの中にいるのなら、〈スープリーム〉を見つけ出すのに何故他の人の助けが必要なの?」と思うことだろうね。この計り知れないほど貴重な宝物は確かにわれわれのハートの中に存在するのだが、普通の能力では、見ることも感じることも出来ないのだ。だから助けが必要なのだよ。グル、つまり霊性の師は、またわれわれの友人であり、自分自身の宝物をどうやって見つけたらいいのか、教えてくれるのだ。

boy今生きているグルを絶対に持つ必要はないが、やはり生きたグルを強く薦める。あなたにはゴールがあるのがわかっていて、そのゴールにたどり着きたいと思っている。もしあなたが賢明なら、一最も容易く、安全に、そして効果的にゴールにたどり着くための道を示してくれる人の助けを受け入れるはずだ。神を悟るのに何百年も何千年もかけたいのならば、スピリチュアル・マスターを持つ必要はない。しかし、もしなるべく早くゴールにたどり着きたいのなら、先生は絶対に必要だよ。

マスターは、あなたの内的成長をうながしてくれる。スピリチュアル・マスターというのは、スピリチュアル・ライフにおけるあなたの家庭教師なのだ。家庭教師<チューター>の先生<ティーチャー>とは大きく違う。普通の先生は生徒の答案を見て、点数をつける。生徒に試験をさせて、通すか落とすかを決める。ところが家庭教師は、生徒がテストに合格出来るように個人的に励まし、鼓舞してくれるのだ。人生の旅路では、毎秒毎秒、〈無明〉からの試験がやってくる。しかしあなたの家庭教師は、どうやれば簡単にその試験に通ることが出来るのか教えてくれる。なるべく早く〈至高なるもの〉を悟れるようにシーカーを鼓舞し、アスピレーションを高めるのがスピリチュアル・マスターの仕事なのだ。

この世では、何を習うにも最初は先生が必要になる。数学を勉強するにも、歴史を学ぶにも先生が必要だ。人生の他の事なら何でも、学ぶためには先生が必要なのに、瞑想に関してだけは違うというのは理屈に合わない。自宅で自習出来るのにみんな大学に行くのは何故だろう? それは、ある分野について専門知識を持ったプロから教えてもらえるからなのだ。ほとんの真の知識人と呼べるは皆大学へ行っている。もちろん例外もある。どんなルールにも必ず例外というのはあるものだ。

神は誰の中にも存在する。だから、もしあなたが人の助けは必要ないと感じるなら、自分の力だけで試してみるといい。ただし、もしあなたが賢明で、つまずいたり、ただ歩くのではなく、ゴールに向かって走りたいと思うならば、グルの助けというのは計り知れないものがある。現在、おそらく私は今、ロンドンに居る。海の向うにニューヨークがあることは分っている。ニューヨークに戻らなければならないとしたら、そのためには何が必要だろう?飛行機とパイロットだ。飛行機が私をニューヨークに運んでくれるという事実をわかっているのに、パイロットなしではそこへはたどり着けないだろう?同じように、あなたは神が存在するということは知っている。瞑想を通じて神にたどり着きたいのだが、誰かがそこまで連れて行ってくれないと行くことは不可能だ。パイロットがニューヨークまで私を連れて行ってくれるように、誰かがあなたを、あなたの奥深くにある神の意識へ連れて行ってくれるのだ。瞑想を通して自分自身の神聖さにどうやって入っていったらいいのか、誰かに教えてもらわないといけないのだよ。スピリチュアル・マスターはあなたのもとへ船でやって来るとこう言うだろう。

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「さあ来るがいい!〈黄金の岸辺〉<ゴールデン ショアー>に行きたいのなら、この船で連れて行ってあげよう。それだけじゃない、私の船なら、歌っても踊ってもいい。眠っていたっていいのだよ。それでもあなたをその〈岸辺〉まで安全に運んであげから。」

もしあなたが誰の助けも欲しくないというなら、無明の海を1人で泳ぎ切りたいというなら、それはあなた自身で決めるがいい。ただし、それは何年、何人生かかることか分らないし、その上しばらく泳いだら、疲れ切って溺れてしまうかも知れない。グルなしでは、あなたの前進はとても遅く、また不確実になってしまう。遥かな高みへと昇って行くような内的体験をしても、それをそれほど重要なものとは思わないまま、忘れてしまうかも知れない。または疑いがあなたのマインドの中に入ってきて、「私はただの普通の人間なのに、あんな経験をするってことがあるのだろうか? 自分をだましているだけかもしれない。」と思うかも知れない。または友人に自分の経験を話すと、「そんなの全部幻覚だよ!」と言われてしまうかも知れない。しかし内的現実とは何であるかわかっている人がいれば、あなたの内的経験はまさに本当だったと確信させてくれる。師<マスター>は求道者<シーカー>を励まし、インスピレーションを与えてくれる。

そして、もしシーカーが瞑想で何か間違ったことをしていたら、矯正してくれるのだよ。コースを取り終えたら、先生はもう必要ない。歌を学びたかったら、プロの歌手のところに行って歌を学ぶだろう。踊りを習いたかったら、プロの舞踊家のところに行く。上手な歌い手、または踊り手になったら、もう先生のところに行く必要はない。
それはスピリチュアル・ライフでも同じことだよ。最初は助けが必要だが、一度本当の上級者になれば、もう誰の助けも必要ない。もしその人がマスターの真の弟子になったら、自分とマスターが二つの別々の存在だとは感じなくなる。グルは木のてっぺんにいて、自分は木の根元にいるのだ、などとは思わない。そうではなく、その弟子は、グルは自分自身の一番高い部分なのだと感じる。自分とグルは一つで、グルというのは自分自身の最も高く、最も発達した部分なのだと感じるのだよ。だから、真の弟子は自分の最も低い部分を自分の最も高い部分に委ねることに、何の抵抗も困難も感じることはない。献身的な弟子になることは、プライドにかかわることではないのだ。最も低い部分も、最も高い部分も、どちらも自分自身のものだとわかっているからなのだ。

あなたにインスピレーションを授ける人
それが本物の先生だ
あなたを愛してくれる人
それが本物の先生だ
あなたの背中を押してくれる人
それが本物の先生だ
あなたを完成させてくれる人
それが本物の先生だ
あなたを宝物のように扱ってくれる人
それが本物の先生だ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想:人に奉仕する


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


世の中を変えようとしないこと
きっと失敗する
代わりに世の中を愛してごらん
すると、世の中はどんどん変わってゆく
果てしなく、いつまでも

瞑想人に奉仕する

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Q: 瞑想するためには、まわりを遮断して独りきりになり、人を拒絶すべきでしょうか?

A: 人類とは神の分かち難い一部分なのだ。人を拒絶して、どうして神聖さを受け入れることが出来るだろうか?われわれはこの世を、今あるがままに受け入れなければならない。受け入れずに、どうやって変革することが出来るだろうか?陶芸家が粘土の塊に触れずに、どうやって壺の形にすることが出来る?瞑想する者は人類の中で神聖な勇者のように振舞わなければならないのだよ。

現在の人類は完成には程遠いところにいる。しかしわれわれもまた、その人類の一部なのだ。自分の体の一部のような兄弟姉妹をどうやって見捨てることが出来る? もし見捨ててしまったら、世の中でうまく行動する自分自身の能力を狭めてしまうだけなのだ。人類を自分のものとして受け入れないといけない。もし自分が他の人にインスピレーションを与える立場にいるなら、もし他の人より一歩進んだところにいるなら、それは後の続く者たちの中の、神聖な存在に奉仕する機会を与えられていると云うことなのだ。

あなたがたは世の中に対峙した上で、世の中で〈至高なるもの〉を悟る必要がある。逃避の人生を送ってはいけない。逃げるのは誰だろう? 怖がっていたり、またはひどく悪いことをしてしまったと思っている者だ。われわれは何も悪いことはしていない。だから周りを怖がる必要はない。世の中を怖がっていたら、すべてに対して恐れを抱いてしまう。今われわれに見えるのは、周りにある巨大で不完全な世の中だ。自分を守るためにそこから逃げようとしている。だが、現在の世の中よりもはるかに恐るべき敵は、まさに自分自身のマインドに他ならないのだ。たとえ洞窟にこもったとしても、マインドから逃げることなど出来っこない。いつも自分に付いてくる。しかもこのマインドは、〈不安・嫉妬心・混乱・疑い・恐れ〉その他の神聖でない資質で溢れている。このマインドのせいで、人生の戦場に留まらざるをえないようになっているのだよ。もしこの世に生きているうちにマインドを克服できないのであれば、単に日常の世界から肉体を遠ざけることが何の役に立つと云うのだ。

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瞑想するのにヒマラヤの洞窟に入っていく必要もないし、入って行っていけない。人類の中にある神聖な存在に献身することによって、世の中の実相を変革しようとし
なければならないのだ。

瞑想は逃避ではない。この地上で神聖な〈真実〉を、最高に体現するために世の中を変革すると云うビジョンのもと、世の中全体を受け入れること大切だ。自分の内的〈平安〉と前進のためだけに瞑想したい者や、世の中に何も捧げようとしない者は自分勝手な連中だ。また一方で、世の中に何かを捧げたいけれど、捧げるに値する何かを得るために瞑想することはしたくないと云う者もいるが、これは実に愚かなことだ。何も持っていないのに、どうしてそれを捧げることが出来る?

この世には何かを捧げたいと云う者はたくさんいるが、彼らは一体何を持っていると云うのだろう?

自分のやるべきことをやらねばならない。まず達成してから捧げることだ。このようにすれば、神を満足させ、また人類を満たすことが出来る。

世の中を変えたいのかな?
それならまず自分自身を変えること
自分自身を変えたいのかな?
それなら静寂の海の中で
完全な静けさを保つことだよ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想:現実的な問題解決法


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想は現実的なのだろうか?

ある人が日常生活で正しいタイミングで正しいことをする時、その人のことを分別があって現実的だと云う。その人は他の人にだまされないように、また社会生活がスムーズに運ぶように、ある一定のやり方で考え、行動をする。しかし、たとえどんなに賢く、どんなに誠実で、どんなに意識して生活していようと、現実社会の生活で途方にくれてしまう場合がある。

「何を言っていいかわからない。」
「何をしていいかわからない。」
「どう振舞っていいかわからない。」

または、正しいことを言ったり、行ったりしているにもかかわらず、すべてが悪い方へ行ってしまうことがある。

この社会の現実経験とどう付合っていったらいいかわからず、人生を管理することができないのだ。心から何かをしたい、または何者かになりたいのに、出来ないのだ。

なぜこのようなことが起こるのだろう?

それは、われわれの外的な力は、常に内的な気づきの限界によって制限されているからなのだよ。しかし内的生活で現実的であれば、つまり祈り、瞑想すれば、限りない〈内的気づき〉を持つようになる。内なる気づきがある人は、無限の真実と永遠に続く喜びに自由にアクセスでき、外的生活を簡単にコントロールすることが出来る。

精神生活<インナーライフ>は常に真実<リアリティ>と神のメッセージを運んでいる。〈真実〉のあるところには〈種〉がある。〈種〉に芽を出し、木になってもらうことにしょう。木に実がなるとき、内面世界の力が現実世界で体現されるのが見える。常にわれわれは、外側からではなく内側から成長してゆくのものだ。

社会生活<アウターライフ>で何をしようが、何を言おうが、〈真実〉の光明に近づいてはいない。しかし、まず瞑想し、それから行動し、話すのなら、正しいことをし、正しいものになって行く。精神生活<インナーライフ>と内的現実<インナーリアリティ>が社会生活を導いていかねばならない。その逆ではないのだ。

社会生活の命の息吹は精神生活から来る必要がある。内的現実が社会生活に入って行かねばならないのだ。そうして初めて、社会生活で本当に現実的になることが出来るのだ。

Q&A

Q: 日々の瞑想から、自分が抱えている疑問に答えていくことができますか?もし出来るなら、その答えがマインドでなく本当にハートや魂から来たものなのか、どうやってわかるのでしょうか?

flower-of-light3A: どんな疑問であっても、瞑想中または瞑想の後で、答えを見つけることが出来る。自分の奥深くに入って行けば、答えは必ず得ることが出来る。ただ答えが来たら、それが魂から来たものなのか、マインドから来たものなのかを見極める必要がある。もしその答えがハートか魂から来たものなら、安堵と〈平安〉を感じるはずだ。そしてその答えを否定するような対立する考えは、何も浮かんでこない。しかしその答えがハートか魂から来たものでないのなら、マインドが前面にやってきて、あなたが受け取った考えに対立することになる。

マインドから来たメッセージには確実性がない。マインドはこの瞬間には一つのことを言い、次の瞬間にはまた別のことを云う。この瞬間には私のことを「とてもいい人だ」と告げたかと思うと次の瞬間には「いや、あいつは悪い奴だ」と云うのだ。しかしハートは常に同じメッセージを提供する。朝に瞑想すると、あるメッセージをもらう。そして夜瞑想してもハートからは、朝と同じメッセージを受け取るのだ。

誰か、 ―たとえば上司―に会うように内的メッセージを受け取ったら、ただその人に会いに行く。しかしそのメッセージがマインドから来たものであるなら、会いに行く前にマインドの中でたくさんの疑問が沸き起こってくる。そしてやっと会いに行ったのに、その結果が満足出来るものでなかったとすると、今度は自分を責めて、「ほら、やっぱり会いに行かなきゃよかった。あれウソのメッセージだった。」と云うのだ.

しかしもしそのメッセージが魂から来たものなら、確固とした確信があり、成功しても失敗しても同じように満足する。メッセージの通り行動している間は自分の望むような結果を期待したりはしない。上司が自分に満足してくれるかどうか、何か自分のためにしてくれるかどうかといったことは何も期待しないのだ。ただ実行し、その結果が成功と云う形で来ようと失敗と云う形で来ようと、正しいことをしたのだと感じるだけだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

良い瞑想とは?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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スピレーションで行う努力は
いつも
満足のいく結果をもたらす
時には時間がかかるかもしれない
しかし、
間違いなく、結果がついてくる

 良い瞑想とは

求道者<シーカー>からよく質問されるのが次の三つだ。

1  自分が果たして正しい瞑想をしているのか?

2  それとも自分をごまかしたり幻覚を見たりしているだけなのか?

3  それはどうやったら識別出来るのか?

その答えはとても簡単だ。もしあなたが正しい瞑想していれば、自然に湧き上がってくる内的な悦びを感じるはずだ。それは誰かが良い知らせを持ってきてくれたからでもなく、プレゼントを貰ったからでもなく、褒められたり感謝されたりしたからでもなく、何かをしてもらったわけでもないのに、こころの中に悦びを感じる。もしこんな風に感じていれば、あなたは正しい瞑想をしていると云える。しかし頭に緊張感や動揺を感じるようなら今あなたがやっている、今している瞑想のやり方はあなたに不向きだと云うことだ。

5もし頭の中で幻想を楽しんでいるだけなら、〈平安〉は内側にあって、落ち着きのなさは外側にあると、感じているはずだ。つまり〈平安・光明・歓喜〉を切望しているのに、外面的には火山の震動のようなものを感じている。もしあなたが本物の瞑想、最高の瞑想をしているなら、内にも外にも間違いなく〈平安〉を感じるはずだ。もし魂からの瞑想をしていれば、自分は永遠の存在なのだと云うことがはっきりわかる。そして自分は永遠のものであり、永遠のためにあると云うことを感じる。この感覚は幻想で得られることはまずありえない。

もう一つ、正しい瞑想をしているかどうか見分ける方法がある。もしあなたが本当に、より高い内的領域に入って行っているのならば、体がとても軽くなっていくのを感じるはずだ。翼があるわけではないのに、まるで空が飛べるかのように感じられる。実は、至高の世界に達する,、ちょうど 本物の鳥のように簡単に飛べる鳥が、自分の内側にいるのがわかるようになる。

自分で想像しているだけの瞑想では、数分の間だけはとても甘美な思いに浸ることが出来るが、その直後には暗く、がっかりするような考えが浮かんでくるものだ。それは「一生懸命勉強したのに、テストはうまく行かなかった。」とか、「今日は会社で本当に一生懸命働いたのに、上司は満足してくれなかった。」などと云うものだ。このような失望と云う形をとった否ネガティブ定的な力が、すぐにあなたを包んでしまう。

あるいはまた猜さいぎしん疑心がやってきて、「昨日あんなにたくさん悪いことをしてしまったのに、んなに良い瞑想が出来ることがあるのだろうか? 神が私に満足して下さるなんてありえない! 高い瞑想が出来るなんて、ありえない!」などと云うかもしれない。しかし本当に高い瞑想ならば、自分の全存在が聖なる鳥のように高く、より高く、遥かな高みを飛んでいくのを感じる。この感覚がある間は、〈悲しさ・失望・疑い〉といった否定的<ネガティブ>な思いは全くない。

あるのはただ歓喜の空を舞う、〈喜び・平安・至福〉だけなのだ。

良い瞑想をしたかどうかは、瞑想をした後の気持ちのあり方でわかる。瞑想の結果、〈平安・光明・愛・歓喜〉が前面に出てきたら、良い瞑想ができた証拠だ。

srichinmoysprintinghouston不完全さに溢れているにもかかわらず、世の中に対して良い思いを抱けるようなら、あるいは愛しい思いで世の中を見ることが出来るなら、その時あなたは良い瞑想をしたと云える。そして、もし瞑想の後で力がみなぎるよう<ダイナミック>な感覚を覚えて、この世にやって来たのは何かするため、何かになるため ―神そのものの姿になっていき、神の献身的な道具になるため― そう思えたなら、良い瞑想をしたと云うことなのだ。

しかし最も簡単な判定の仕方は、〈平安・光明・愛・歓喜〉が内側から前面にでてきたかどうかと云う一点に尽きる。

あなたはすでに用意万端のはず
なぜってあなたのアスピレーションの鳥は
あなたを捕らえ、目を覆うマインドの混乱の雲よりも
遥か高いところを飛んでいるのだから

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

質問:集中・瞑想・観想


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


Q: 座って瞑想を始めるのですが、マインドを静めておくのにひどく集中しなければならず、なかなか内なる自己に触れることが出来ないのです。

Yahva meditating: Tokyo Sri Chinmoy Centre, Free Meditation LessonsA: あなたは気づいていないかもしれないが、それはごく正常なことだ。マインドを落ち着かせ、静かにしようとしていると云うことは、集中していると云うことにほかならない。なぜなら集中では思考と感情をコントロールし、そして集中から瞑想への道が切り開かれなくてはならないからだ。瞑想するには、感情的生活と落ち着きのないマインドは、すでにある程度訓練していないとだめだ。マインドを悩ませる思考をすべて追い払うのに成功したら、遅かれ早かれあなたの内的存在が前面に出てくることになる。それは丁度覆っている雲を一掃する灼熱の太陽のようなものだ。今のところ内なる太陽は思考、疑い、恐れなどといった雲に覆われてしまっている。この雲を追い払うことが出来れば、内的な自己が目の前で輝き、明るく光を放っているのがわかるようになる。

Q: 集中しているのか瞑想しているのかどうしたらわかるのですか?

A: 集中の場合にはとてつもない勢いがある。それは丁度的に向かって飛んでゆく矢のようなものだ。勢いのある力から活力をもらっていると感じるのなら、それは集中の結果だ。一方瞑想では、平安と広大な感覚がまわりすべてにあり、特にマインドにそれを感じる。自分の奥深くにどこまでも広がる〈平安・光明・至福〉の海を感じるなら、これは瞑想によるものだ。瞑想とは平安、静寂、そして広大さだからだ。集中と同じく勢いもあるが、その勢いは輝く光で満たされている。集中の場合には至高で輝く光は必要ないし、また殆どそのような光もない。

また集中はすぐに結果を欲しがる。ゴールに到達するためなら何でもする覚悟が出来ている。瞑想は意のままになる時間が無限にあると感じる。これは過ぎゆく時間を軽視している訳ではなく、過ぎゆく時に価値を置きつつも、過ぎゆく時の中に永遠の時が見えるのだ。だから、瞑想の内側には無限の平安があるのだ。

どちらの経験の方が好きだなどと、えり好みしてはいけない。神<スープリーム>〉があなたの中であなたを通して集中したい時には集中になるし、あなたの中であなたを通して瞑想したい時には、瞑想が起こるのだから。

Q: 瞑想の仕方を一度学んだら、集中の練習はもうしないのでしょうか?

Sri-Chinmoy-KamakuraA: 一般的なルールとして、スピリチュアルな生活を始めようとしているシーカーは、少なくとも何ヶ月かは集中から始めるがいい。集中を学ぶと、瞑想はやりやすくなる。しかし、瞑想が出来るようになっても、毎日の瞑想を始める前に数分間集中するのはよいことだ。集中すると云うことは、走る前にトラックの障害物を取り除くランナーのようなもので、トラック障害物がなければ、安全に速く走ることが出来る。そうなると、あなたは内なる特急列車のようになり、終点<ゴール>めがけてまっしぐらに進んでゆくことが出来る。

Q: 瞑想が終わったら、どうやって観想にいけばいいのですか?

A: 観想は修行を何年も経た、スピリチュアルな人生でもずっと上級者になってから出来るようになるものだ。観想とは内的なはしごの最上段ともいえる。スピリチュアルなアスピラントの中で、ごく限られた観想であっても、それが出来る者はとてもまれにしかいない。またそれでさえ、自分の思う通りに出来るものではないのだよ。

観想は神を悟る前に習得されるべきものだから、無視したり避けて通ることは出来ない。あなたは、まだ観想の必要はない。と云うのも、集中と瞑想がまだ完璧には出来ていないからだ。集中と瞑想の二つが完璧になったそのときは、観想もまた完璧に出来なくてはならない。そのときには、本当に〈至高なるもの〉のなかに入ってゆくことが出来る。

集中力がないのに、
どうやって外的な人生で成功することが出来るだろうか?
瞑想の平安がないのに、
どうやって内的な人生で前進することが出来るだろうか?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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スピリチュアル・ハート——平安の住みか


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


幸せになりたいのかな?
だったら
マインドの力を過大評価せず
ハートの光を過小評価しないこと

ハートと魂

7-200x300ハートで瞑想すると云うことは、魂がいる場所で瞑想すると云うことだ。確かに、魂の光と意識は体全体に広がってはいるが、魂には大体いつもいる場所と云うのがあり、それがハートの中なのだ。光を受け取りたいのなら、魂から受け取る必要がある。それはハートの中にあるのだ。何が欲しくて、どこに行けばそれがあるのか分かっているなら、そこへ行くのは当然のこと。さもなければまるで、金物屋に夕飯のおかずを買いに行くようなものだ。(笑)

マインドから得られるものとハートから得られるものには、比べものにならないくらい差がある。マインドには限界があり、ハートには限界はないからだ。あなたの内側奥深くには無限の平安<ピース>・光明<ライト>・至福< ブリス>〉がある。限られた量のものを手に入れるのはたやすいことだ。マインドでの瞑想がそれにあたる。しかしハートで瞑想すれば、もっと限りなく、多くののものを得ることが出来る。仮にあなたが二つの会社で働くとする。一方では二百ドル稼ぎ、もう一方では五百ドルを稼ぐことが出来る。ちょっと考えれば、一方の会社で時間を無駄にすることスピリチュアル・ハートはないだろう?

マインドに完全に頼っている限り、まずあなたは瞑想に失望してしまうことは見に見えている。マインドはすべてを複雑にし、あなたを混乱させてしまうからだ。普通の人は複雑なことが智恵だと思っているが、スピリチュアルな人は神がとてもシンプルだと云うことを知っている。複雑さではなく、シンプルさの中に本当の真実はあるものだ。

そうだからと云って、マインドがいつも悪者だと言っているわけではない。いつも悪者だとは限らないのだが、マインドには限界がある。マインドから得られるものは、せいぜいよくてインスピレーションなのだが、それ自体限界がある。真のアスピレーションを得るためには、ハートへ行かなければならない。アスピレーションはハートからやって来る。そこは魂の輝きがいつもあるところだからだ。ハートで瞑想すればアスピレーションを得るだけでなく、魂の無限の〈平安・光明・至福〉を得ることになり、あなたのアスピレーションは初めて満たされる。

 

Q: 瞑想中にスピリチュアル・ハートにたどり着くにはどうしたらよいのですか?

September-13-1976g-_0-100x150A: スピリチュアル・ハートは胸部の真ん中にある。あなたが強力なアスピレーションがあるときには、スピリチュアル・ハートを感じることが出来るだろう。またそれは第三の目で見ることも出来る。スピリチュアル・ハートで瞑想するのが難しければ、心臓そのものに集中してもよい。しかし数ヶ月または一年ほど経つうちに、肉体の心臓の中には神聖な〈こハートころ〉があり、そして神聖なハートの中には魂<ソウル>があるのを感じることが出来るはずだ。これが感じられたら、スピリチュアル・ハートで瞑想を始めることが出来る。

スピリチュアル・ハートにたどり着くには、自分にはマインドがない、腕もない、足もない、ハートしかないと感じなくてはいけない。それから、自分にはハートがあるのではなく、自分がハートそのものなのだと感じることが必要だ。自分がハート以外の何ものでもないのだと感じられたら、瞑想中に簡単にスピリチュアル・ハートにたどり着クことが出来る。

 

Q: マインドを離れ、ハートに入ってゆくのがとても難しいのですが、どうしたらいいでしょうか?

ckg-jk-pinkA: あなたのマインドが持つもの全てを、何も考えないでハートの中に投げ込むがいい。「マインドを捨ててしまったら、私の存在はどうなる?バカになってしまう?」と思うかも知れないが、いいかい? 人と会話するのに使っているマインド、情報を得るのに使っているマインド、世の中の普通の物事をするのに使っているあなたのマインドは、」神を悟るためにあなたを、わずか一ミリでさえも前進させることはないのだ。そのマインドは足が不自由で、盲目で、耳も聞こえないのだよ。

足の裏から頭頂まで、あなたの存在全てが魂なのだと感じること。魂をこめてこう繰り返すがいい。「私は魂だ。私は魂そものなのだ。」と魂をこめて五分間こう唱えたら、肉体のマインドからの抵抗はなくなり、魂だけがある状態が訪れる。魂の中で生き、魂の光を前面にもってきたら、この光はマインドをより高い領域へもっていくか、平安を上からもってくることが出来る。これにより、これまでのあなたが知っている肉体のマインドは変革される。 あなたの問題は解決されるのだよ。

 

Q: 瞑想していると、ときどきハートを感じているのかマインドで経験しているこ
となのか、区別出来ないときがあるのですが?

pixintrogrpbirdA: ハートを感じているのであれば、純粋な満足感がある。それがマインドなら、満足感はあるものの、疑いもまたすぐにやってくる。今したばかりの経験が他の考えに攻撃されてしまう。「自分は本当にだめだ。本当に不純で、本当に無知だ。今朝うそをついてしまったし、昨日もやっぱり誘惑に負けてしまった。だからこんな満たされた気持ちになれるはずはない。」こんな考えが浮かんでくるのは、これがマインドでの経験なのだと分かる。

マインドで何か経験すると、一時的にとても幸せな気持ちになるかもしれない。しかし喜びは残らない。なぜならマインドが見たり、感じたり、悟ったこととは一体感を確立出来ないからだ。しかしハートで経験すれば、すぐにその経験と一体感を感じ、喜びはいつまでも継続する。

マインドを使って花を見ると、観賞し、賞賛する。しかし、ハートでその花を見ると、たちまち、自分のハートがその花の中にあると感じるか、その花が自分のハートの中にあると感じられる。だから何か経験を得て、もしその経験と一つになるなら、それはハートからきていることが分かる。一方、その経験が何か自分の外側で達成されたことだと感じるなら、これはマインドから来ているものなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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質問:瞑想中に創造的な考えが浮かんだら…期待するの


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


マインドは質問の洪水だ
それに答えられる師はただ一人しかいない
一体それは誰だ?
それこそは静寂を愛する
あなたのハートなのだ

Q: 瞑想中に創造的な考えが浮かんだら、それを追っていった方がいいですか?それともハートの中で、ただそれを感じようとした方がよいのでしょうか?

pink-rose-400x240A: 前向きな考えが浮かんだら、それはただちに神<スープリーム>からの祝福だと思って間違いない。しかし、それがどんな種類のインスピレーションなのかわかっていないといけない。明るく照らされるようなインスピレーションであるなら、また何かとてもよいことをするための、創造的なインスピレーションであるなら、追っていくといい。創造的な考え、より高いゴールを示してくれる考えには何でも従った方がいいだろう。あるインスピレーションが、あなたの人生に何か新しいものをもたらしてくれ、あなたの人生を変革してくれるのであれば、そのときには追いかけていくべきだ。

あなたがたはインスピレーションはマインドの中だけに存在し、アスピレーションはハートの中だけに存在すると感じているかもしれないが、アスピレーションがマインドにあることもあれば、インスピレーションがハートにあることもある。インスピレーションがアスピレーションにやってくることもあり、その反対もありえる。しかし、そう云うインスピレーションは、とても高い種類のものでなくてはならない。そうでなければそれは全く瞑想の助けにはならない。瞑想中に、おいしいクッキーを焼こうと云うインスピレーションが湧いたとしても、これは時間の無駄でしかない(笑)

明るく輝くインスピレーションなら、「その創造的なアイデアがまさに自分自身の進歩なのだ」と受け止めるがいい。なぜならその創造的なアイデアは、この物質世界で体現されたいと望む別世界から来た創造物なのだから・・・・ だからその場合には瞑想の後でその考えを書き留めて置くほうがいい。そしてそれを後でさらに深めてゆくことになる。

 

Q: 瞑想するとき、何か特定のものを期待するのはいけないことなのですか?

Liliya-300x218A: 瞑想中はただあなたの内的、外的な存在をすべて神<スープリーム>〉に投げ出すようにすること。何も考える必要はない。ただ、光明<ライト>・平安<ピース>・至福<ブリス>・力<パワー>の海に自分を投げ入れるのだ。

しかし、何かある特定の神聖な資質や結果を期待してはいけない。それは自分のことも、神<ゴッド>のことも縛っていることになってしまうからだ。なぜなら、人の期待は無限ではなく、非常に限界があるからだ。期待するとただちにマインドが働き、受容力がとても限られてくる。でも何も期待しなければ、受容力の問題は神<ゴッド>の問題となる。そのとき神は確実に、あなたに全てを極限なく与え、と同時にあなたの中に与えるものを受け取るのに十分な受容力を作り上げてくれるのだ。

最も高いレベルの瞑想とは、静寂<サイレンス>の中で一つの目的のためになされるもの。――それは、神に神のやり方で喜んでもらうことなのだ。

瞑想する時、自分は神のやり方で神に喜んでもらっている、と感じられるなら、それが最善の瞑想だといえる。さもなければ、喜びを得るために瞑想を始めたら、喜びを得るかも知れないが、無限の喜びと云うのを得ることは出来ない。なぜなら、あなたの〈永遠なる愛しい存在〉である神<ゴッド>を、神のやり方で満足させてはいないからなのだ。

「御心のままに。」と救世主イエスキリストが言ったことは、まさに最高の高みにある真実なのだよ。瞑想する前に、瞑想の結果を源<ソース>に捧げ、「どうか貴方の完璧な道具にしてください。貴方が望むように、私の中で、私を通して御自分を満たすことが出来ますように。」 と言えれば、これはもう間違いなく、最も高いレベルの瞑想なのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

質問:どうやって瞑想するのですか?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


Sri Chinmoy performing a peace concert at the Kamakura Diabatsu Q: どうやって瞑想するのですか?
A:  瞑想には二つの方法がある。一つは思考<マインド>を静かにさせるやり方だ。ふつうの人は、思考を静めてしまったら馬鹿になってしまうのではないかと思っている。思考がなくなることで、すべてが失われてしまうのではないかと思っているのだ。しかしスピリチュアルな見地ではこの考えは間違っている。スピリチュアル・ライフでは、思考を静かにさせると、そこに何か新しい創造、新しい神への約束が芽生えるのがわかる。今はまだ、神との約束を果たしてはいない。まだ、自分の存在を完全に神に捧げてはいるわけではない。しかし思考を静めることが出来れば、神を喜ばせ、満たすことが出来るようになる。もう一つの方法は、こころ<ハート>を空っぽにすること。今の時点では、ハートは純粋でない生バイタル 命エネルギーに包まれている。その純粋でない生命エネルギーによって引き起こされた、感情的な混乱と問題でいっぱいだ。ハートは器にしか過ぎない。今、この器は、われわれを縛り、制限する神聖ではないもので満たされている。が、もしこのハートの器を空にすることが出来れば、誰かがやってきて、神聖な〈平安<ピース>・光明<ライト>・歓び<ディライト>で満たしてくれる。そしてわれわれはくびきから解放され自由になる。ハートの中の無<イグノランス>明を取り去って空っぽにすると、今度は神の〈叡智の光〉で満たされることになる。

ckg-jk-pinkQ: 瞑想が最も高いところにある真実なのですか?
A: ビギナーにとっては、瞑想が最も高いところにある真実だといえるだろう。しかし上級者になると、瞑想は至高の真実へ導いてくれるものにすぎないことが判る。もし今まで無明の世界で生きてきて、わずか一分でさえ祈ったり瞑想したりしたことがないのであれば、当然その人にとっては瞑想が、自分の意識が到達しうる最も高いところにある真実となる。しかし何年か瞑想を続けると、瞑想それ自体は至高の真実ではないのだと判る。至高の真実と云うのは、瞑想の道を歩みながら実現し、あなたがなってい,,,,,,,ものなのだ。

Q: スピリチュアルに進化し、悟りの境地に達したら、瞑想の焦点は変わりますか?
A: 悟りの境地に達した後は、神の探求者<シーカー>がするような瞑想はもう必要ない。悟りの境地へ行くとき、つまり神<スープリーム>と一つになるとき、その人は常に瞑想していることになるからだ。神の探求者が〈神〉を悟った後に瞑想するのは、何か達成しようとか、何かを越えようとかするためではない。人類のために平<ピース>安・光<ライト>明・至<ブリス>福を下ろしてくるため、または他の人たちの意識を目覚めさせるために瞑想をするのだよ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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