朝の瞑想が一番


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


front_jharna_kalaもし神の御顔が見たいなら
毎日少なくともいくらかの時間を過ごさないといけない
神の選ばれし道具であるあなたのハートと共に

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

ただ目を閉じて、頭に漂っている心地良い思いを楽しむだけの瞑想を五~六回やるより、一日一回でいいからしっかり瞑想した方がいい。瞑想のたびに、自分は〈命の息吹〉を〈スープリーム〉に捧げ、〈魂の光〉を前面に持ってきていると感じなければいけない。そうして初めて、瞑想は意味のあるものになる。もしあなたが、魂を込めて瞑想することが、一日に一回早朝に行うのが精一杯だと感じているなら、それで充分だ。そこにあなたの本当の受容力、誠実さ、やる気、悦びが見えることが何より大切だ。もしそこにインスピレーションがあれば、それは〈スープリーム〉から〈励まし〉と〈許可〉を貰ったということだ。つまりあなたはとても速く走って行くことが出来るだろう。また、昼休みや三時の休憩に瞑想する者もいる。すばらしいことだ。でも、早朝の瞑想も必要だ。朝早く、正しいことをして一日をスタートすることができれば、あなたは一日中インスピレーションを受けた状態でいることが出来る。

朝の瞑想が一番

7-200x300朝の時間に瞑想すれば、それはとても実りあるものだということがあなたにもわかる。太陽が昇る前、地球の意識はまだかき乱されてはいない。世の中は、まだその日の喧騒の中に入っていないからだ。自然はまだ静かで落ち着いている。このことは、あなたが瞑想をする上で、大きな手助けになる。自然がぐっすりと眠っている間は、人の内に巣くう動物の部分、つまり光があたっていない意識もやはり眠っている。その時まだわれわれは、活力を与え、満たしてくれる夢の世界にいる。そしてそこから現実<リアリティ>が育っていくことになる。だから、アスピレーションを持つ目覚めた意識は、朝の瞑想から得るものが一番多いのだ。

陽が昇ると、母なる大地<マザー アース>は神聖に活動的になるか、あるいは神聖さのない落ち着きのなさを持つようになる。特に西洋では、現在のダイナミックな性質のために、宇宙あるいは外の自然に、ある種の苛立った感覚がある。このような落ち着きを欠いた世の中の性質は、あなたにとっては不要なものであるにもかかわらず、入ってきてしまうことが多い。人が活動し始めた途端、あなたがどこにいようが、たちどころにその波動はあなたの中に入ってきてしまう。大気、光、あなたの周りにあるすべてに、人間の活動と不安感のもつ波動が浸透してしまうのだよ。まるでそれはうなり声をあげるライオンのように、世の中はあなたの目の前に立ちはだかっている。うなるライオンの前で、どうやって最高の瞑想に入れるというのだろう? だが世の中が目覚める前、宇宙がまだ静かで、周りの人たちが休んでいる間なら、あなたはより深い瞑想をすることが出来る。

日中に瞑想するのはとても難しい。夜の瞑想も幾分なりと難しいものがある。なぜなら八時間から十時間、あなたは世間の喧騒の中にいたからだ。日中アスピレーションのない人たちにたくさん会い、そして無意識のうちに、その人たちの神聖でない考えや不純な思いがあなたの中に入ってきてしまっているのだ。内的に非常に強くない限りは、世の中からアスピレーションもインスピレーションもない力をたくさん自分の中に取り入れてしまっているのだ。だから夜に、朝と同じレベルの希望と神聖さをもって瞑想するのはとても難しいのだよ。瞑想の前にシャワーを浴びたり、あるいはスピリチュアルな人と交わったりすることは良いことだ。

朝になるとこのような神聖でない力や経験は、少なくともしばらくの間は、記憶から消え去っている。寝ている間にあなたの中に入ってきていた不純なものはすべて洗い流されてしまっているのだ。その時あなたの魂は、まるで〈聖なる盗人〉のように静かにあなたを観察している。普通の泥棒はあなたから何かを盗んで行くが、この〈聖なる盗人〉はただただ与えるだけなのだ。ある場所で〈平安〉が必要なら、魂はそこに〈平安〉を持ってきてくれる。魂はちょうど母親のように振舞う。子供が寝ている間、早朝そっと部屋に入ってきて、日中に必要なものを用意しておいてくれるのだ。夜寝ている間魂は、あなたに必要なことをやってあげられる機会を持てるのです。しかし、あなたが日中、外の世界の活動に夢中になっているときは、魂はあなたに与えることも、あなたが魂から受け取ることも非常に難しい。だから、朝の瞑想が一番なのだよ。

美<ビューティ>がやってきた
まるで朝のバラのように
務め<デューティ>がやってきた
まるで朝の太陽のように
神聖<ディヴィニティ>なるものがやってきた
まるで朝のアスピレーションのように

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想の練習


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想練習

1 ハートのバラ

まずあなたのハートの中で花を想像しなさい。今回はバラを思い描いてみることにする。このバラは完全に咲ききっていなく、まだつぼみのままだ。二~三分瞑想したら、その花びらが一枚一枚開いている様を想像しみること。一枚一枚開いていく花をハートの中で見、そして感じること。5分ほど経ったら、あなたのハートはなくなったと想ってみること。そして、「ハート」と云う名の花が自分の中にあるだけだと感じてみる。するとそこにはもはやハートはなく、バラの花があるだけだ。花はあなたのハートになり、そしてハートは花になってしまったのだ。

七~八分経ったら、あなたのからだ全体がこの〈花のハート〉に覆われたと感じごらん。身体はもうここにはなく、頭頂から足の先までバラの香りがするだろう?足を見れば、すぐにバラの香りがしてくる。膝を見てもバラの香りがするし、手を見ても、やはりバラの香りがする。体中いたるところに、バラの美しさ、香り、純粋さが広がったのだ。頭から足までバラの美しさ、香り、純粋さ、喜びそのものになったと思えたら、愛しの〈スープリーム〉の足もとに自分をたむける用意が出来たと云うことなのだよ。

2 意識の河

瞑想するとき、次の三つのことを思い浮かべてごらん。
⑴ 純粋さを自分全体に
⑵ 謙虚さを自分の全存在に
⑶ そして感謝の心を自分の手足すべてと細胞のすべてに
次に息を吸い、そして吐くとき、神聖な意識の河が、あなたの中を流れていると感じてみるのだ。だが決して無理強いしたり、力んではいけないよ。そしてこの神聖な意識が、〈源〉である〈スープリーム〉と常にワンネスを保ちながら流れて行くのを感じるがいい。

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3  神に捧げる

息を吸うとき、神の不滅の資質を吸い込んでいると感じ、次に息を吐くときは、自分の無明を神に捧げていると感じてごらん。

現在<いま>、あなたは無明が自分のものだと思っている。無明はとても悪いことだと言いながらも、その実それを手放したくない! しかし、「無知はわれわれの真の所有物ではない!」と云うことを知ることが必要だ。真の所有物とは〈平安・光明・至福〉なのだ。瞑想中、間違って所有しているものを神に捧げ、真に所有するものを神からいただくこと。「私の持っているもの、私のあるがままを取り去って下さい。そして貴方の持っているもの、貴方のあるがままを私に下さい」と神に頼むがいい。

あなたが持っているのはアスピレーションで、それは神聖になりたいと云う内的な叫びだ。あなたのあるがままは無明そのものだ。神にアスピレーションも無明も持っていってくれるよう頼むことだ。そして神の持っているもの、神のあるがまま、すなわち、〈無限・永遠・不滅〉を下さるように頼むことだ。

4 黄金の存在

神、つまりインナー・パイロットのハートの中にいると感じてみる。〈スープリーム〉を見たことはなくても、全身黄金に輝く人を想像するのだ。その存在はあなたの目の前にいて、あなたはそのハートの中か、膝の上か、あるいは足もとにいる。自分が十八歳だとか四十歳や六十歳だとは思ってはいけない。自分はまだたった一ヶ月の赤ん坊で、〈スープリーム〉のハートの中にすっぽり入っているか、膝に抱かれていると思うことだ。

5 空の広大さ

半眼にして、広大な空を思い浮かべてみる。最初は、目の前に空が広がっていると感じるがいい。その後は、自分は空と同じくらい広大だ、または広大な空そのものだと感じてみてごらん。

数分経ったら目を閉じて、自分のハートの中に空を見て、感じてみること。あなたは宇宙のハートで、あなたの内側には自分が瞑想し、一体化していた空が広がると感じてみること。あなたのスピリチュアル・ハートは空より限りなく広大なのだから、自分の中に空を抱くのはたやすいことだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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無限を垣間見る:瞑想


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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無限を垣間見る:瞑想

集中では、何か一つのものに注意の焦点を合わせる。しかし、瞑想では、同時にたくさんのことを見、たくさんのことに対処し、たくさんのことを歓迎する力が自分の内深くにあるのを感じる。瞑想では、自分自身を拡げようとする。あたかも鳥が羽を広げていくように、自分たちの有限の意識を拡げて宇宙の意識に入っていこうとする。そこには恐れもねたみも疑いも存在せず、ただ〈喜び・平安・神聖〉な力があるだけだ。

瞑想とは、意識的に大きくなり、〈無限〉となっていくこと。瞑想の時、実際何をしているかと云うと、空の、落ち着いて静寂なマインドに入っていき、そして〈無限〉そのものから栄養を得て育んでもらっているのだ。瞑想しているとき、望むことはたった一つ。それは神とひとつになること。今私は英語で話していて、あなたはそれを理解することが出来る。英語がよくわかるからだ。同様に、瞑想がうまく出来れば神とひとつになることが出来る。瞑想と云うのは神と会話をするために使う言葉のことなのだ。

 

平安の海

sri-chinmoy-meditating-204x300瞑想は海の底へいくようなもので、そこでは全てが静かで平安に満たされている。水面にはおびただしい数の波が出ているかもしれないが、その下にある海は影響を受けることはない。海底の一番深いところにあるのは静けさだけだ。瞑想を始めたら、まず自分の内的存在、真の存在、つまり海の底にたどり着こうとする。そこにいれば、外の世界から波が押し寄せてきても影響されることはない。恐れ、疑い、心配など世俗的な動揺はみんなただ洗い流されてしまう。われわれの内側には確固とした平安があるからだ。そこでは考えにも惑わされることはない。なぜならマインドが全く平安、静寂、一体感になっているからだ。考えが魚のように、跳ねたり泳いだりしても、あとを残すことはない。自分にとって一番高いレベルの瞑想をする時、われわれは自分を海だと感じ、海の生き物には影響されることはない。または自分は空で飛んでゆく鳥に影響されることもない。マインドが空で、ハートが無限の海。これが瞑想だ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

集中の力


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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集中の力

集中とは内的に意識がはっきりと、冴えていると云うことだ。盗人はあなたのまわりにもそして中にもたくさん住んでいる。〈恐れ・疑い・心配・不安〉と云うのは、あなたの内的な安定や心の平安を盗もうとする内面にいる盗人のことだ。

しかし、集中の方法さえ知っていれば、このような力が自分の中に入ってくるのは難しい。猜疑心が思考<マインド>に入ってくれば、集中の力がそれをこなごなに砕いてしまう。また恐れが入ってくれば、集中の力が追い払ってしまう。現いま在のあなたがたは光の射さない、どんよりと暗い破壊的な考えの思う壺になっている。しかし、集中の力が増してくると、邪念の方がわれわれを恐れるようになるのだ。

集中と云うのは、われわれの中で機能しているマインドのダイナミックな意志の力だ。その力は光を受け入れ、闇を拒絶する。それはあたかもわれわれの中に住まう神聖な戦士のようなもの。神や真理を求める人生<アスピレーションライフ>の中で集中が果たしてくれる役割は想像の域を超えている。

集中はわれわれをこの地上での、まさに地獄そのもののような途絶えることのない心配と不安、そして拷問の苦しみから解放し、天国の永遠の続く悦びの内で生きてゆくことを容易くしてくれるのだ。

集中はゴールに到達する一番確実な方法といえる。そのゴールが神を悟ることであろうが、単に人の欲望を叶えることであろうが。真の求道者<アスピラント>は遅かれ早かれ集中の力を会得することになる。

〈神の恩寵〉、あるいはあなたの〈アスピレーション〉、あるいは継続的なトレーニングによって・・

 

魂の不屈の意思

Tenouchi集中〉それは何かに突入する弾丸、あるいは集中の対象を引き寄せる磁石のようなものだ。集中がおこなわれる時、どんな考えもマインドに入ってくることを許さない神聖なものでも神聖でないものでも、世俗的でも非世俗的なものでも、良くても悪くてもだ。

集中ではマインド全体を何かの〈物体〉かあるいは〈テーマ〉に注意を集中させる必要がある。もし花びら一枚に集中しているのなら、その花びら以外にはこの世には何も存在しないとマインドを集中すること。前も後ろも、上も中も見ず、ただ一点集中の力でその対象を射抜くこと。しかし攻撃的に何かに入っていくわけではない。この集中力は魂の不屈の意思、意志力からきているのだ。
何かの対象を使って集中を練習する場合には、その対象からすぐ喜びを得られるものを選ぶこと。あなたに師<マスター>がいるならマスターの写真からたちまち喜びを得られるはずだ。マスターがいなければ何かとても美しく、神聖で純粋な、例えば花のようなものを選ぶといい。

思考<マインド>の光を放つ一点集中の力で集中する

こころ<ハート>の広がり続ける広大さのなかで瞑想する

魂<ソウル>の満たしてゆく一体感で観想する

 

ハートから集中する

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蓮花/蓮華/ロータス

道<アスピラント>を求める人々からよく言われるのが、五分以上集中出来ないと云うものだ。彼らは五分経つと頭痛がしたり、頭に火が点いたようになってしまうと云う。何故だ?

それは、集中の力が知的なマインド、言い換えれば訓練されたマインドからきているからなのだ。マインド自身、ふらふらしてはいけないことくらいは分っている。それくらいはマインドにも分かっている。しかしマインドを正しく、光のあたったやり方で活用するには、魂の光が入ってくる必要がある。魂の光がマインドに入ってさえくれば、いとも簡単に何時間でも集中することが出来るようになる。その間は考えも疑いも恐れも浮かんでくることはない。あなたのマインドが魂の光で満ち溢れていれば、否ネガティブ定的な力は全く入ってくることが出来ないのだ。

集中しているとき、その集中の力はハートの中心からやってきて、第三の目へ向かって上昇していると感じること。ハートの中心には魂がいる。ここでは、魂がどんなものなのか、どんな形をしているのか、などと云うことは考える必要はない。ただ、神の代弁者、または限りない光明と歓喜そのものだと思ってみることだ。集中したら、魂の光がハートから出てきて第三の目を通り抜けると感じなさい。そうして それからこの光で、集中している物体に入り込み一体になり。集中の最終段階は集中している対象の中に隠れた究極の〈真実〉を見つけ出すことなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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矢と弓-集中は矢で瞑想は弓


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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弓道の練習をします

矢と弓

集中は矢で瞑想は弓

集中とは、何かテーマや物体にエネルギー全てを向け、その神秘のベールを剥がそうとすること。

瞑想は、限界ある意識からより高い意識へ行くこと。そこには静寂の広大さが君臨する。

集中はめがけていくその知識をとらえたい。瞑想は追求するその知識と一つになりたい。

集中は心の乱れを許さない、心の乱れとは集中の部隊本部に入って盗人だからだ。

だが瞑想はその盗人を中へと招き入れる。

何故?

もちろん現行犯で逮捕するためだ。

集中は散りじりにおなってしまった意識を我に返るよう促す司令官。

集中と絶対に強固な意志

この二つは分かちがたいだけでなく、お互いを必要とする神聖な戦士。

集中は敵に決闘の挑戦をし、戦う。瞑想は、その静かな微笑みで敵の攻撃の威力を小さくする。

集中は神に云う。

「父よ、あなたのところへ参ります。」

瞑想はこう云う。

「父よ、どうぞここへいらして下さい。」

道<アスピラント>を求める者には真摯な教師が二人いる:集中と瞑想だ。集中はいつも生徒に厳しい。

瞑想は時に厳しい。でもとにかく、二人とも生徒の前進に心から関心を抱いている。

 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

スピリチュアル・ハート——平安の住みか


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


幸せになりたいのかな?
だったら
マインドの力を過大評価せず
ハートの光を過小評価しないこと

ハートと魂

7-200x300ハートで瞑想すると云うことは、魂がいる場所で瞑想すると云うことだ。確かに、魂の光と意識は体全体に広がってはいるが、魂には大体いつもいる場所と云うのがあり、それがハートの中なのだ。光を受け取りたいのなら、魂から受け取る必要がある。それはハートの中にあるのだ。何が欲しくて、どこに行けばそれがあるのか分かっているなら、そこへ行くのは当然のこと。さもなければまるで、金物屋に夕飯のおかずを買いに行くようなものだ。(笑)

マインドから得られるものとハートから得られるものには、比べものにならないくらい差がある。マインドには限界があり、ハートには限界はないからだ。あなたの内側奥深くには無限の平安<ピース>・光明<ライト>・至福< ブリス>〉がある。限られた量のものを手に入れるのはたやすいことだ。マインドでの瞑想がそれにあたる。しかしハートで瞑想すれば、もっと限りなく、多くののものを得ることが出来る。仮にあなたが二つの会社で働くとする。一方では二百ドル稼ぎ、もう一方では五百ドルを稼ぐことが出来る。ちょっと考えれば、一方の会社で時間を無駄にすることスピリチュアル・ハートはないだろう?

マインドに完全に頼っている限り、まずあなたは瞑想に失望してしまうことは見に見えている。マインドはすべてを複雑にし、あなたを混乱させてしまうからだ。普通の人は複雑なことが智恵だと思っているが、スピリチュアルな人は神がとてもシンプルだと云うことを知っている。複雑さではなく、シンプルさの中に本当の真実はあるものだ。

そうだからと云って、マインドがいつも悪者だと言っているわけではない。いつも悪者だとは限らないのだが、マインドには限界がある。マインドから得られるものは、せいぜいよくてインスピレーションなのだが、それ自体限界がある。真のアスピレーションを得るためには、ハートへ行かなければならない。アスピレーションはハートからやって来る。そこは魂の輝きがいつもあるところだからだ。ハートで瞑想すればアスピレーションを得るだけでなく、魂の無限の〈平安・光明・至福〉を得ることになり、あなたのアスピレーションは初めて満たされる。

 

Q: 瞑想中にスピリチュアル・ハートにたどり着くにはどうしたらよいのですか?

September-13-1976g-_0-100x150A: スピリチュアル・ハートは胸部の真ん中にある。あなたが強力なアスピレーションがあるときには、スピリチュアル・ハートを感じることが出来るだろう。またそれは第三の目で見ることも出来る。スピリチュアル・ハートで瞑想するのが難しければ、心臓そのものに集中してもよい。しかし数ヶ月または一年ほど経つうちに、肉体の心臓の中には神聖な〈こハートころ〉があり、そして神聖なハートの中には魂<ソウル>があるのを感じることが出来るはずだ。これが感じられたら、スピリチュアル・ハートで瞑想を始めることが出来る。

スピリチュアル・ハートにたどり着くには、自分にはマインドがない、腕もない、足もない、ハートしかないと感じなくてはいけない。それから、自分にはハートがあるのではなく、自分がハートそのものなのだと感じることが必要だ。自分がハート以外の何ものでもないのだと感じられたら、瞑想中に簡単にスピリチュアル・ハートにたどり着クことが出来る。

 

Q: マインドを離れ、ハートに入ってゆくのがとても難しいのですが、どうしたらいいでしょうか?

ckg-jk-pinkA: あなたのマインドが持つもの全てを、何も考えないでハートの中に投げ込むがいい。「マインドを捨ててしまったら、私の存在はどうなる?バカになってしまう?」と思うかも知れないが、いいかい? 人と会話するのに使っているマインド、情報を得るのに使っているマインド、世の中の普通の物事をするのに使っているあなたのマインドは、」神を悟るためにあなたを、わずか一ミリでさえも前進させることはないのだ。そのマインドは足が不自由で、盲目で、耳も聞こえないのだよ。

足の裏から頭頂まで、あなたの存在全てが魂なのだと感じること。魂をこめてこう繰り返すがいい。「私は魂だ。私は魂そものなのだ。」と魂をこめて五分間こう唱えたら、肉体のマインドからの抵抗はなくなり、魂だけがある状態が訪れる。魂の中で生き、魂の光を前面にもってきたら、この光はマインドをより高い領域へもっていくか、平安を上からもってくることが出来る。これにより、これまでのあなたが知っている肉体のマインドは変革される。 あなたの問題は解決されるのだよ。

 

Q: 瞑想していると、ときどきハートを感じているのかマインドで経験しているこ
となのか、区別出来ないときがあるのですが?

pixintrogrpbirdA: ハートを感じているのであれば、純粋な満足感がある。それがマインドなら、満足感はあるものの、疑いもまたすぐにやってくる。今したばかりの経験が他の考えに攻撃されてしまう。「自分は本当にだめだ。本当に不純で、本当に無知だ。今朝うそをついてしまったし、昨日もやっぱり誘惑に負けてしまった。だからこんな満たされた気持ちになれるはずはない。」こんな考えが浮かんでくるのは、これがマインドでの経験なのだと分かる。

マインドで何か経験すると、一時的にとても幸せな気持ちになるかもしれない。しかし喜びは残らない。なぜならマインドが見たり、感じたり、悟ったこととは一体感を確立出来ないからだ。しかしハートで経験すれば、すぐにその経験と一体感を感じ、喜びはいつまでも継続する。

マインドを使って花を見ると、観賞し、賞賛する。しかし、ハートでその花を見ると、たちまち、自分のハートがその花の中にあると感じるか、その花が自分のハートの中にあると感じられる。だから何か経験を得て、もしその経験と一つになるなら、それはハートからきていることが分かる。一方、その経験が何か自分の外側で達成されたことだと感じるなら、これはマインドから来ているものなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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頭を空っぽにする


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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時に静寂の中に身をおくことが必要だ
と云うのも
それこそが唯一の道なのだ
もう少しよく知り
もう少し賢く考え
もう少し完璧になり
もう少し早く、神を自分のものとするために

静かなマインド

思考<マインド>を静めるどの瞑想の道を選ぼうと、まず最も大切なことは、思考<マインド>を静かに落ち着かせることだ。あなたの中でいつも思考が忙しく動き回り、容赦ない諸々の考えの餌食になっているようなら、まず進歩はない。思考は常に静かに落ち着いていることが肝要なのだ。そうすれば、天から
光明が下りてくるのが分るようになる。意識して光明に気づき、受け入れることであなたは非常に深い瞑想に入ることが出来る。そしてあなたの人生は浄化され、変革され、明るく輝いてくる。

しかし、どうやれば思考を静かに落ち着かせることが出来る?

思考はそれ自体力をもっている。そして現在<いま>のあなたの中では、この力はあなたの瞑想したいと云う熱意や決意よりも強いのだ。しかしこハートころの助けを借りることが出来れば、徐々に思考をコントロール出来るようになる。こころは常に、光明とパワーで満ちあふれた魂ソウル
から同じように助けをもらっている。

sri-chinmoy-manos-corazon頭<マインド>を空っぽにする

あなたがたの中には頭<マインド>が空っぽになってしまうと、頭がおかしくなって気が狂ったように振舞うのではないかと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない! 十分か十五分でも思<マインド>考を静め落ち着かせることが出来れば、あなたの内側に新しい世界が開けてくる。そしてこれがあなたの霊性が進歩してゆく上でのあらゆる元となる。現在<いま>のあなたは、まだ思<マインド>考をほんの数秒か、せいぜい一分ぐらいなら静めることが出来ないかも知れない。でもその静けさ、落ち着き、平安を三十分、いや十五分でも保つことが出来るなら、その平安の中に、途方もない神聖な光明とパワーをもった、新しい世界が育ってゆくことはまちがいない。

頭に何の考えも浮かんでこないとき、困ったことになったとは思ってはいけないよ。それどころか、何か神聖なものが、あなたの純粋で真実を熱望している部分で育っているのだと感じること。だがすぐに結果を期待してはいけない。農夫は種をまき、そして待つ。すぐ作物が実ることを彼は期待しているだろうか? 芽がでるまでは数週間か数ヶ月は必要なことくらい子供でも知っている。これと同じように、あなたのマインドは、豊かな土地に例えることが出来る。静寂と平穏と云う種をまき、辛抱強く耕して行けば、遅かれ早かれ、必ず光明と云う大豊作を収穫出来ることなる。

瞑想に思考<マインド>は必要ない。思考と瞑想は全く違うものだ。瞑想するときは全く思考はなくなってしまう。瞑想の目的は全ての考えから自分を解放することなのだ。考えと云うのはちょうど黒板についた点のようなもので、良きにせよ悪しきにせよそこにある。考えが全くなくなってしまった時、初めて、至高の真実になっていくことが出来るのだ。

非常に深い瞑想でも、考えが浮かんでくることはあるが、最も高く深いレベルの瞑想では、そんなことはおこりえない。至高の瞑想では、ただそこに光明があるだけなのだ。

ゆっくりと、しかも確実に、落ち着きのない思考を静めることが出来たなら、

神は、喜んで

ただちにその計り知れなく大きなハートを開いてくれる。

DSC_3891思考<マインド>を超えて

光明の中ではヴィジョンと実<リアリティ>在は一つだ。あなたはそこに座り、私はここに立っている。私をヴィジョン、あなたを現実とする。あなたを知りたかったら、私はあなたを見、あなたの中に入っていかねばならない。しかし至高の瞑想では、現実とヴィジョンは一つなのだ。

あなたが在るところに私も在る。そして私が在るところにはあなたが在る。
われわれは一つなのだ。だから、至高の瞑想では考えはいらない。
至高の瞑想においては知る者と知るべき物は一つになるのだ。

静かに内側を見つめて考える、内省と呼ばれるものでさえ、規律をもって行われる瞑想の広大さとは比べものにならない。考え始めた瞬間に、限界や束縛と戯れることになってしまう。現在<いま>、どんなに甘美で美味な考えであろうと、それは最終的には痛みを伴い、破壊的なものとなってしまう。なぜなら、それはわれわれを制限し、縛るものだからだ。思<マインド>考に現実は存在しない。なぜならそれは毎秒毎秒世界を作り上げては、次の瞬間にそれを壊しているからだ。思考にもそれなりの役割はある、しかしスピリチュアル・ライフにおいては、思考を遥かに超えた永遠の平安、永遠の叡知、永遠の光明があるところに行く必要がある。アスピレーションと瞑想に助けられて思考を超えたその時、初めて神の〈実リアリティ在〉と神の〈ヴィジョン〉を同時に見、楽しむことが出来る。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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目を開けているか、閉じるか?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


瞑想は神聖な贈り物だ瞑想はこの世での人生をシンプルにし、精スピリチュアルライフ神生活に活力を与えてくれる瞑想によって人生は、自然でのびのびしたものになるとにかく自然でのびのびし自分自身の神聖さを一息ごとに意識しないではいられなくなる

SriChinmoy34-300x204目を開けているか、閉じるか?

目を開けたまま瞑想したほうがいいのか、と聞かれることが多い。目をつぶって瞑想をすると、殆どの人たちはが眠ってしまう。五分ほどは瞑想をしても、後の十五分は眠りの世界に入ってしまうのだ。ダイナミックなエネルギーを得るのではなく、だるさ・自己満足・そしてある種の安らかで甘美な感覚を覚えるだけだ。

瞑想中に目をつぶり眠りの世界に入ると、様々な空想を楽しむことが出来る。あなたは持ち前の豊かな想像力で、より高い世界に入っていくのだと感じるかも知れない。実際、すばらしい瞑想をしているのだと思い込む方法はたくさんある。

だから、目は半分開き、半分閉じた状態でいるのが一番いい。このようにして、あなたは木の根元と最も高いこずえにある枝に同時にいることが出来る。目を半分開けている自分は、〈母なる地球〉を象徴する根元にいる。一方目を半分閉じている自分がいるのは一番高いところにある枝、ヴィジョンの世界、または〈天国〉と言える。あなたの意識は最高の高みにいると同時にこの地球上にもいて、世界を変革しようとしているのだ。

半眼の状態で瞑想するとき、これを「獅子の瞑想」と云う。こころの奥深くに行っている間も意識して、物質世界にも無意識の世界にも注意を払っていることが出来る。物質界の騒音と混乱、そして無意識界の眠りがあなたを呼んでいる。しかしあなたはそのどちらも乗り越えているところなのだ。「OK、僕の意識ははっきりしている。そちらの世界へ連れて行くことは出来ないんだよ。」とあなたは言っているのだ。目が半開きなので、眠りに落ちることはない。こうして無意識の世界に挑んでいるのだ。同時に周りで何が起こっているか見えているから物質界のコントロールも保つことが出来る。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

リンク

 

瞑想を始める準備-基本をマスターする


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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準備がないと何も始まらない
何も始まらないと前進もない
前進がないとゴールもない
そして
ゴールがなければ
満足はない

瞑想を始める準備

家で瞑想する際には、瞑想のためだけに使う神聖な場所をつくり、 そこを完璧に純粋で清めること。そこに、自分のスピリチュアル・マスター、または仏陀やイエス・キリスト、あるいは自分が師と仰ぐ神聖な存在の写真や絵を飾るといい。このような場所をシュラインと云う。

altardemeditacaosrichinmoy瞑想を始める前に、シャワーを浴びるか風呂に入って身をきれいにしておくがいい。これはあなたの意識を浄化する助けになるからだ。シャワーを浴びることが出来なければ、少なくとも顔は洗うこと。そして、清潔で軽い服を着るのがいい。部屋に香を焚き、シュラインには花を生けておきなさい。香の香りがもたらすインスピレーションと浄化作用はほんのわずかかもしれない。しかしこのわずかなものがあなたの内面の宝物となる。瞑想中に目の前に花を置く必要はないと云う人たちもいる。「花はわれわれの内面にある。千枚の花びらを持つ蓮の花は私たちの中に咲いているのだ。」と云うのだ。しかしシュラインにある実物の花は、あなたの内側に咲く花を思い起こさせてくれる。その色、香り、純粋な意識があなたに霊感<インスピレーション>をもたらす。そしてこの霊
感<インスピレーション>から、心<アスピレーション>から神を求める気持ちが生まれてくるのだ。

瞑想中にろうそくを使うのも同じ理由だ。ろうそくの炎自体にはアスピレーションなどはない。しかしその燃えるな炎を見ることで、自分の内的存在のアスピレーションの炎が高く、何よりも高く昇ってゆくのを感じることが出来る。もし神を悟る直前か、もう神を悟ってしまっている者にとっては、このような外的なことには何の価値もない。しかし悟りへの道のりがまだ遥かなものと分かっていれば、花やろうそくが確実に、あなたのアスピレーションを高めてくれるのだ。
毎日の瞑想をするときは、必ず一人で行いなさい。但し、同じスピリチュアル・マスターを持つ夫婦の場合は例外だ。この場合、夫と妻は一緒に瞑想してもよい。それ以外は、毎日の個人の瞑想をほかの人とするのは勧めない。グループでする瞑想も大切だが、個人の日々の瞑想は、自分のシュラインに向かって、一人で行ったほうがよい。

瞑想は神聖な贈り物だ瞑想はこの世での人生をシンプルにし、精スピリチュアルライフ神生活に活力を与えてくれる瞑想によって人生は、自然でのびのびしたものになるとにかく自然でのびのびし自分自身の神聖さを一息ごとに意識しないではいられなくなる

Sri Chinmoy performing a peace concert at the Kamakura Diabatsu姿勢が大切

瞑想するときは、背筋をまっすぐに伸ばし、身体をリラックスさせることが大切だ。身体が固いと、瞑想の間に体を流れる、神聖で満ち足りたものを受けとることが出来ない。また座り心地が悪いと云うのも良くない。瞑想に入ると、内的存在<インナーパイロット>があなたを自然な心地よい姿勢してくれることだろう。しかしその姿勢を保つかどうかはあなた次第なのだ。蓮華坐<パドマアーサナ>のよいところは、脊椎をまっすぐに伸ばしていられることだ。しかしこの姿勢はヨーガや座禅をやったことのない者にとってはとてもむずかしい。きちんとした瞑想をするために、必ずこの蓮華坐<パドマアーサナ>を習得しなければならないと云うことではない。椅子に座ってもよい瞑想は出来るしそうする者も大勢いる。

体操や一定の姿勢を作る動きをする人たちもいる。これはハタ・ヨーガとよばれていて、身体をリラックスさせ、少しの間心の平安をもたらしてくれる。もしあなたが落ち着きが全くなく、一秒もじっとしていられないようなら、このハタ・ヨーガは確実に助けになってくれることだろう。しかしハタ・ヨーガが瞑想を行う上で、絶対に必要かと云うと全くそうではない。高みを目ざす求道者<アスピラント>には、ハタ・ヨーガを行わなくても、心を落ち着け静めることが出来る
人は大勢いる。

横になって瞑想するのはやらないほうがよい。これは何年か瞑想の経験がある者でも同じだ。横になって瞑想しようとすると、眠りの世界に入るか、うとうととまどろみの世界に入ってしうからだ。さらに、横になっていると、座っている時ほど呼吸がきちんと出来なくなってしまう。それは無意識で呼吸をしているからだ。意識的に呼吸をコントロールすることは瞑想においてとても大切なことだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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質問:もっと人生に喜びが欲しいのです


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


魂のこもったこころが至高の真実を発見した。
神に瞑想するのは義務ではなく名誉なことなのだ。

bali40Q: もっと人生に喜びが欲しいのです。けれどもだからといって、そのために瞑想に飛び込むだけの自信がありません。

A: 人生に喜びを感じていない、しかし喜びは欲しいと感じている。それはつまり、あなたがスピリチュアルなことに飢えていると云うことだ。スピリチュアルに飢えているなら、スピリチュアルな食べ物を食べることだ。

飢えていなければ食べないだろう?

あなたはこれまで十五~二十年の間、スピリチュアルな生活を誠実に、あるいはは激しく求めてくることはなかった。あまりに長い間瞑想もしてこなかったから、スピリチュアルな海に急に飛び込んでも泳ぐことは出来ない。自分の性質をすぐに変えることは出来ないから、ゆっくりと一定のペースで、少しづつやるようにするといい。最初は水の中で動き回り、徐々に泳ぎ方を習うこと。そのうちうまく泳げる時がやってくる。しかしあなたにはもう内的に飢えがあるのだから、泳ぎ始める準備が出来ていると云うことだよ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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