真実になる ― 観想

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~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


真実になる ― 観想

sri-chinmoy-meditating-204x300集中は一点に注意を集める。瞑想は自分の意識を〈広大なもの〉まで拡大し、その意識の中へ入っていく。しかし観想では〈広大なもの〉自体になってゆき、その意識が他でもない自分のものとなる。観想は最も深い集中と、最も高いレベルの瞑想に同時にいることだ。瞑想で見え、感じた真実―観想ではその真実になっていき、完全にそれとひとつになる。神に集中しているときは、神を眼前に感じるかもしれないし、すぐとなりに感じるかも知れない。また瞑想しているときは、自分の内側に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉を感ぜずにはいられない。しかし観想では、自分自身が神であり、自分自身が〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉そのものだと云うことがわかる。

観想とは、意識的に無限で永遠な〈絶対的存在〉とひとつになることだ。観想において、〈創造者〉と創造物、愛する者と〈愛しい存在〉、そして知る者と知る対象はひとつになる。この瞬間われわれは神聖に愛する者であり、神が愛しの〈スープリーム〉となる。そして次の瞬間には役割が交代する。観想では〈創造者〉とひとつになり、宇宙全体を自分の内側に見ることが出来る。そのとき、自分自身の存在は最早なくなってしまう。何か、〈光明・平安・至福〉を力強く発しているものが見えるだけだ。

集中から得るメッセージ
それは冴えた頭でいると云うこと
瞑想から得るメッセージ
それは広大さ
観想から得るメッセージ
それは分かちようのない一体感

瞑想と観想

OLYMPUS DIGITAL CAMERAある特定の神聖な資質、たとえば〈光明・平安・至福〉に瞑想したり、抽象的に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉に瞑想したりすると、内側に特急列車が走っているのをいつも感じる。特急列車が動き続けている間に〈光明・平安・至福〉に瞑想しているのだ。マインドは〈無限〉の広大さの中で落ち着いて静かだが、それでもまだ動きがある。列車は止むことなくそのゴールに向かって走っている。われわれはゴールを心に描き、瞑想はそこへ連れて行ってくれる。

しかし、観想はちがう。観想では、宇宙全体、そしてもっとも遠いところにある〈ゴール〉が自分の奥深くにあると感じる。自分の中に宇宙全体とその無限の光明、平安、至福と真実を携えていると感じる。そのとき最早、思考も、形も、思いも存在しない。観想では全てが意識の流れ一つに合流してゆく。最高レベルの観想では自分が意識そのもの以外の何物でもないと感じる。

〈絶対的存在〉とひとつなのだ。しかし、最高レベルの瞑想では意識の中にダイナミックな動きが起こっている。内側の世界と外側の世界で何が起こっているのか全て分かっているが、それに影響されることはない。観想でも、瞑想と同じく、内側の世界と外側の世界で起こっていることに影響されることはない。しかしその違いは、自分の存在全体が宇宙と切っても切れないものなり、そしてその宇宙を自分の奥深くに携えていると云うことなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より