2017年11月西 東京市田無でディテーションワークショップ

クラスのお知らせ

11月28日(火)、30日(金)夜
西東京市田無でブラジルからアシルバードさんを招いてメディテーションワークショップがあります。
全クラス無料です。不定期のクラスですのでぜひこの機会にお越しください。
クラスは英語で行われますが通訳があります。詳細をお知りになりたい方は、ご連絡先電話番号をメッセージボックスに記入してください。折り返しこちらからご連絡いたします。
Ashirvad from Brazil is going to have classes in Tanashi in november. Free. Please leave your phone number we will call you. We will have classes in English and Japanese translation.

アシルバード:シュリ・チンモイに師事して20年。瞑想のクラスを世界各国で行っています。10回目以上来日しています。
Ashirvad has been leaning meditation for more than 20 years under the guidance of Sri Chinmoy.  He has been doing classes in around the world. He has been in Japan more than 10 times.

 

シュリ・チンモイへの推薦のことば

「本当にたくさんの国で、世界平和のため、人のためになさっている良いお仕事をとても嬉しく思います。神の栄光と、人のために、これからも共に働き、分かち合ってゆきましょう。」マザー・テレサ
「貴方の愛に溢れた心と、深い叡智を限りなく敬愛しております。」ミハイル・ゴルバチョフ元ソビエト連邦大統領
「貴方がなさっていることは、人類全体、世界全体のためになることです。」ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領
「あなたの世界平和と人類共存のための多大な御貢献についてもう一度言わせて下さい。
このような活動は世界中の政治活動にとって、誇りとインスピレーションの源です。人類を向上させるためにあなたがなさっていることに心からお礼申し上げます。」ハビエル・ペレス・デクエヤル元国連事務総長
「シュリ・チンモイ、あなたは私たちみんなの励みです。」カール・ルイス

瞑想のためのアフォリズム

 

魂から祈り

自分を捧げて瞑想するたびに

主スープリームが花咲いていくのが見える

私のハートの中で

美しく光を放ちながら

〜シュリ・チンモイ著「神は…」より

 

神と心を通わせるため

人には静寂な瞑想がある

人と心を通わせるため

神には本当に必要な<平和>がある

〜シュリ・チンモイ著「神は…」より

 

瞑想が教えてくれることはただひとつ―神は存在する。

瞑想が示してくれる真実はただひとつ―神のビジョンは私達のものだ。

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

 

瞑想とは何だろう。

瞑想とは人間の自己覚醒であり

神が自らを捧げることだ。

この二つが出会うとき

人間は内的世界で不滅となり

神は外的世界で満たされる。

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

 

瞑想は神の言語だ。

自分の人生で神の意志が何であるのか

知りたいですか。

神に自分を導き

形づくり

自分の中で自分を通して神自身を満たしてもらいたいですか。

それなら瞑想という言語を使わなくてはならない

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

*

瞑想は神聖な贈り物だ。

瞑想は外面の人生をシンプルにし

内面の人生に活力を与えてくれる。

瞑想によって人生は

自然でのびのびしたものになる。

とにかく自然でのびのびし

自分自身の神聖さを一息ごとに意識しないではいられなくなる。

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

 

魂のこもったこころが至高の真実を発見した。

神に瞑想するのは

義務ではなく名誉なこと。

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

*

<ゴール>に到達したい

だから集中する

<ゴール>のハートの中で生きてみたい

だから瞑想する

<ゴール>そのものになりたい

だから観想する

〜シュリ・チンモイ著「瞑想」より

瞑想は実用的か

meditation class in tokyo 瞑想 東京 ワークショップ正しい時に正しいことができる人を、実用的な人といいます。そのような人の外的な生活はとてもうまくいきます。しかし、どんなに賢くても、どんなに気をつ けていても、途方に暮れるときが誰にでもあります。どう言ったらいいのか、何をしたらいいのか分からない時や、正しいことを言ったり、したりしているにも かかわらず、すべてのことがうまく行かなくなってしまうことがあります。人生をコントロールできなくなるのです。心から何かをやりたいし、何かになりた い、でも、できない。
なぜこんなことが起こるのでしょうか?それは、外的な能力というものが、内的な〈気づき〉に常に左右されるからです。内的な生活で実用的であれ ば、すなわち祈りや瞑想をしていれば、内的な〈気づき〉を増やすことができます。内的な〈気づき〉があれば、永遠の真実や、終わりのない喜びに自由にアク セスでき、外的な生活もコントロールできるようになるのです。
わたしたちは常に、外側からではなく内側から成長します。植物は土の中の種から成長するのであって、その逆はありません。内的な生活は、常に《真 実》と神のメッセージを携えています。この内面の《真実》は種です。この種を発芽させて苗ができ、さらに木となれば、その木になった実を食べることができ ます。そして実を食べながら、この実は外的な世界に存在するものだけれど、源は内面の世界から来たものだと分かります。このように、内的な世界での受容 力、または能力が、外面の世界に表れてくるのが分かります。
瞑想   ただ単に外的な世界で、どんなに長い間働いても、話をしても、何をしようと、《真実》に近づくことはできません。まず瞑想して、それから話し、行動 して初めて、実用的なことをすることができるのです。内面の世界での実用性は、外的な人生を導いていきます。その逆はありません。外的な人生における命の 息吹は、内的な生活から来たものでなければなりません。このようにしてこそ、本当に実用的になれるのです。
勇気を持って内的な生活に入ってみれば、内的な生活は実用的であり、現実的であり、自然であることがわかるでしょう。愛、光、平和、喜び、というも のは神聖であり、まったく正常なことなのです。内的な世界が提供してくれるものを、外的な世界に持ってくることができれば、外的な世界も神聖で、正常で、 実用的で、満足いくものとなるのです。
-シュリ・チンモイ・喜びの翼 P25〜

 

瞑想の道の果実とチャクラ


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想の道の果実

ゴールに通じる道はたくさんある。ある道は美しい花が道の両側にいくつも咲いていて、二本目の道は幾輪か咲いているだけ、そして三本目の道は一輪も咲いていないかも知れない。もし三人の求道者<シーカー>が自分の魂の必要とするものと好みに合わせて、それぞれの道を行くなら、最終的には全員がゴールに到達する。しかし、旅路の途中ではかなり違う経験をすることになる。

経験の一つ一つが悟りへの一歩となる。一つ一つの経験が自分への自信を高めてくれる。一つ経験するたびにあなたは励まされ、活力を得、さらに遠くまで進もうと心が燃え立つ。そして、すばらしい歓びさえ得ることが出来る。そのような経験をしている間、あなたは、ゴールに向かって背中を押してくれる目に見えない導き手を自分の中に感じることだろう。〈ゴール〉と呼ぶ果実を得る前に、あなたはいろいろな種類の実をたくさん味見したいと思うかも知れないね。しかしゴールという果実を口にして初めて、完全な満足を得ることが出来る。シーカーの中には、神を悟るという果実以外は、何もいらないと感じる者もいる。その人たちにとって、いわゆるスピリチュアルな経験というのは全く必要ない。もしあなたに非常に早く走れる力があるなら、神を悟る前に何千という経験をする必要は全くない。神になっていく過程で広がっていく意識それ自体が、しっかりとした経験以外の何ものでもないからだ。

内的経験をしても、その経験が本物なのかどうかわからない時があるかも知れない。しかしこれは、あなたにマスターがいない場合にのみ生じる問題なのだ。もしマスターがいるなら、それが実りある内的経験なのか、それとも自分自身を欺いているだけなのか、すぐに教えてもらうことが出来る。スピリチュアル・マスターなら疑いも躊躇もなく簡単にわかるからだ。

pink-rose-400x240もしあなたにマスターがいなくても、この問題を解決することは出来る。ただひとえに、スピリチュアル・ハートに集中することだ。もしあなたの経験が本物なら、まるでハートに蟻が這い回っているかのような微かすかかな感覚を覚えるはずだ。 あなたの経験が本物かどうか見分けるには他の方法もある。出来るだけゆっくり、そして静かに息を吸い込んでごらん。そして自分の中に純粋さを取り込んでいるのだと思うこと。純粋さが糸のようにあなたの中に入ってきて、臍のチャクラの周りに巻きついていくのが感じられるはずだ。その時自分の経験に集中し、もしあなたのスピリチュアル・ハートが臍のチャクラに入っていこうとしないのなら、この経験は単に幻想にすぎないことがわかる。しかし、もしハートが喜んで臍のチャクラの中に入っていくのなら、その経験は絶対に正しく紛れもない本物だと保証する。

または、何か経験をしている最中に、その経験そのものになっていけるかどうか、ニ~三分ほど試してみるといい。その経験そのものになっていくのが、時間の問題だと感じるようなら、その経験は本物だ。しかし、もし、現実は別のところにあって、その経験そのものになっていくことは決して出来ないと思われるようなら、それは偽者だ。
ある経験をしている時に、内インナーライフ的生活と外的生活<アウターライフ>を分けてみるといい。外的生活は人間として必要なこと、この世で必須とされることだ。内的生活はやはり必要な生活だが、これは神にとって必要なのであって、あなたが必要としていることではない。神にとって必須のことなのであって、あなたにとっての必須ではない。だから、神が必要としていることが、あなたの経験の中であなたの経験を通して機能しているのか感じて見ることだ。神があなたの中であなたを通して御自分を満たす必要があり、またそうしたいと思っておられるのを感じて見るのだ。

このような感覚、または悟りがあるのなら、あなたの経験は本物だと言える。真の経験というのは、あなたが誠実に内的生活を欲し、必要としたとき、そして神があなたの中であなたを通して内的生活を必要とし、欲した時にのみ得られるものだ。このような理解に達したなら、あなたの経験はすべて本物だ。紛れもなく本物なのだよ。

flower-of-light3思考<マインド>を浄化する

思考<マインド>はほとんどいつも純粋ではなく、上向きでない考えを持ってくる。ただでさえマインドは猜疑心、嫉妬心、偽善、恐怖心など神聖でない資質の餌食になっている。否ネガティブ定的なものはすべてまずマインドを攻撃する。ほんのちょっとの間そう云う考えを遠ざけることが出来たとしても、また同じものがマインドの扉をノックする。マインドとはそう云うものなのだ。それに対し、こころ<ハート>はもっとはるかに純粋だ。優しい気持ち、愛、献身、明け渡しなどの神聖な資質がすでにハートにはある。だからハートはマインドよりずっと純粋なのだ。たとえ恐怖心や嫉妬心がハートにあったとしても、ハートが持つ良い資質が前面に出てくる。

しかしそうはいっても生バイタル 命エネルギーが近くにある以上、ハートは完全に純粋ではないかもしれない。へマニプラチャクラそあたりにある下位の生バイタル 命エネルギーが上ってきては、ハートの中心に触っていく傾向があるからだ。バイタルの影響を受けてハートが純粋でなくなってしまうことがある、しかし少なくともハートはマインドとは違う。マインドは煩悩に自ら扉を開け放してしまうものだからだ。 ハートはマインドよりずっと良い存在だが、最もすぐれているのは魂<ソウル>だ。なぜなら魂は、純粋さ、光明、至福、神聖さだけで出来ている存在だからだ。

lotus-100x150練習 – 受容力のある場所 – (アジナチャクラ)

受容力をすぐに得る一つの方法は、出来るだけ早く何度も何度も〈スープリーム〉と心の中で繰り返すことだ。そのためには、まず体の中で一つ場所を選ぶことが必要だ。例えばそれを第三の目<アジナチャクラ>にして見よう。そして、その場所に意識を保ちながら、〈スープリーム〉とできるだけ早く繰り返してごらん。それから今度は別の場所を選び、同じようにやってみる。体の上部から下部へ行く方が下部から上部へ向かうよりも望ましい。集中する場所はエネルギーの中心(チャクラ)でなくてもかまわない。どこでも自分の好きな場所でいい。自分の体の中から七ヵ所選んでこれができたら、受容力がある場所がどこか一か所は絶対に見つかるだろう。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

Places of concentration in meditation (チャクラ)

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2015年3月 ゲスト講師の瞑想クラス・鷺宮・中野・練馬・新宿の近辺

site-patangaPatanga Cordeiro [パタンガコルデイロ]

ブラジル生まれ。シュリ・チンモイに師事し瞑想を学んで11年。瞑想ワークショップを行って 9年になる。ウルトラマラソンを走るのが大好きです。今回が1度目の来日。クラスでは通訳が付きます。

  • 瞑想クラス・鷺宮・中野・練馬・新宿の近辺

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lecturemeditation

Sri Chinmoy’s Messages for Japan

Some of Sri Chinmoy’s messages, poetry and comments on Japan, from Sri Chinmoy Library:

Message for Japan

Japan is the land of infinite beauty, and this beauty is expressed through inner peace. Man has seen many things. Of the many things that man has seen, peace is new; and Japan is offering this new thing to the world.

Kyoto, January 7, 1986

Salutation to Japan

Japan is the land of beauty. This beauty is not something that man has created. It is something that God Himself is, and that God Himself has. What God Himself is, and what God Himself has, in one form is beauty. This beauty is revealing itself through the body, vital, mind, heart and soul of Japan.

Sri-Chinmoy-KamakuraWhen we think of Japan, when we pray for Japan, when we meditate on Japan, we see a very, very special quality of our Lord Supreme. This unique quality is His self-expression and revelation of His own Infinity in and through His finite, little self. God is infinite. He is vaster than the vastest. Far beyond our imagination is His vastness. But again, He can reveal Himself through the finite, smaller than the smallest. This unique quality and capacity of His can be found only in Japan. It is not nature’s beauty in Japan-though that has its own value-but it is the inner beauty, inner softness, sweetness, tenderness, purity and humility of Japan that have pleased God the Creator most powerfully.Inner beauty is your birthright. This inner beauty God, our Beloved Supreme, cherishes. He is fond of your inner beauty and proud of your outer beauty. Your inner beauty is your heart’s sleepless cry for God. Your outer beauty is your willingness and eagerness to serve God the creation.

In the East, the sun rises in Japan. The inner sun will also rise here sooner than the soonest to illumine the East, to illumine the West and to illumine the whole world.

This salutation to Japan was offered by Sri Chinmoy on 27 September 1987 in Kyoto.

Sri Chinmoy, Japan: soul-beauty’s heart-garden, Agni Press, 1993

Mu Magazine: Finally, if you have any message for the people of Japan, could you share it with us?

Sri Chinmoy: Japan is a country filled with infinite beauty. It has an image of a beautiful flower garden. This beauty is expressed through inner peace. Man has seen many things, but of these things peace is new. Japan is offering this new treasure to the world.

Japan has some other very special capacities to offer. Japan produces such small, beautiful things. God is infinite and finite-larger than the largest and smaller than the smallest. He is both the ocean and the drop. He is inside me as a human being and, again, He is inside the vast sky and ocean. In Japan I see God the Creator in His small aspect, but at the same time, so beautiful and powerful. Here I see the finite expressing the Beauty and Divinity of God in such a powerful way, and I am deeply impressed. It is like the difference between seeing a child do something and a grown-up do it. When the child does it, I get much more joy. In Japan’s case, the child is Japan’s childlike flower-consciousness-a beautiful flower is reaching the highest in terms of beauty and purity. As soon as I think of Japan, my mind feels beauty, my heart feels purity and my life feels humility. I could write hundreds and hundreds of poems about Japan. In fact, I have already written them in the depths of my gratitude-heart.

During this trip I feel that I received more than I offered. I tried to give a little peace to the hearts of my Japanese brothers and sisters, and they gave me their love-which is so deep and profound. I am grateful to you for asking me such wonderful and important questions today.

ウパニシャッドの一つは瞑想には…、オーラ…、魂が体から出て…


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


我が魂は
人生の闘いを超え
無限を飛んでゆく火の鳥

 

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ウパニシャッドの一つは、瞑想には三種類あると述べている。低いレベルの瞑想、微細な瞑想、そして超越瞑想だ。あなたの経験の場合は、このうちの最初の段階で起こっている。非常に高い瞑想をしているにもかかわらず、あなたは自分全体の存在がそこにあるとは感じられないのだ。霊的な意識においては非常に高い瞑想をしているのですが、完全に実りのあるものではない。なぜなら内的家族のメンバー全員が参加してはいないからだ。

第二段階の瞑想では、自分の意識を完全に認識し、その中でその意識と完全に一つになる。今はただ〈意識〉という言葉を使っているが、この段階になると、実際に意識が何なのか見えて、感じられるようになる。一瞬一瞬に、自分の中にある聖なる光の一筋、そしてすべてに行きわたる光が見えるようになる。この光が〈至高なるもの〉とあなたを結んでいるのだ。この瞑想の段階では、あなたは地球と天国をつなぐ存在になる。

第三段階の最も高い瞑想は、超越瞑想だ。この段階では自分自身を〈瞑想する者〉と〈瞑想それ自体〉の両方として感じ、または見ることが出来る。この段階では見るものと見られるものが一つになる。これが起こるのは最高の〈超越の意識〉においてだけなのだ。それは、〈誘惑・フラストレーション・不安・恐れ・嫉妬・失敗〉といった自然の舞を超えたところにある。しかしだからといって、低いレベルの瞑想では自分なりの最も深い瞑想には入れないということはないのだよ。入ることは出来ても、その最高に深い瞑想を享受しているのはハートと魂だけで、ボディ、バイタル、マインドは享受してはいない。だからこのレベルの瞑想を低いレベルの瞑想と呼んでいるのだ。

Q: 魂が体から出てしまったという経験を瞑想中に一度したのですが。

A: 瞑想中に魂が体から出るということはある。場合によっては魂が本当にパワフルに前面に出てきて、身体の意識がなくなってしまうか覆い隠されてしまうか、または魂の光によって完全に光が当てられ、変革されてしまうのだ。

Q: 瞑想中に見えるオーラについてお話し下さいますか?

A: 人間は誰でもオーラがある。瞑想中に自分のオーラが見えるかも知れないが、集中している最中や、睡眠中にも見えることがあるかも知れない。瞑想とオーラに直接のつながりはない。ただ一つ言えるとすれば、瞑想することによってより平穏な意識に入って行き、そのような意識のときはオーラが見えやすいものだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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師・グル・スピリチュアルマスターとは?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


スピリチュアル・マスターが教え子のためにする最も大切なことは、
教え子が自分の奥深くに、
何か広大で無限なものを常に意識出来るようにしてあげること
そしてこの広大で無限な存在とは神に他ならない

 

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グルとは?

グルというのはサンスクリット語のことばで、「光をあてる者」という意味だ。〈光明〉を与える人をグルと呼ぶ。私自身の内的な悟りから言えることは、真のグルは一人しか存在しない、それは〈スープリーム〉なのだ。人間に真のグルはいない。しかし、確かに〈スープリーム〉だけが真のグルとはいえ、ここ地球では時間は貴重なものだ。〈光明〉への旅路を助けてくれる人がいるなら、その人を自分のグルと呼んでもよい。霊性の師<スピリチュアル マスター>、つまりグルというのは家族に喩えると年長の子供のようなもので、そして求道者<シーカー>というのは弟や妹たちのようなものだ。スピリチュアル・マスターは、弟や妹たちに〈父親〉つまり〈絶対なるグル〉がどこにいるのか教え、示してくれる。

真の〈グル〉は広大な青い空のどこかにいるのではなく、われわれのハートの一番奥にいるのだ。こう云うとあなたは、「もしわれわれのハートの中にいるのなら、〈スープリーム〉を見つけ出すのに何故他の人の助けが必要なの?」と思うことだろうね。この計り知れないほど貴重な宝物は確かにわれわれのハートの中に存在するのだが、普通の能力では、見ることも感じることも出来ないのだ。だから助けが必要なのだよ。グル、つまり霊性の師は、またわれわれの友人であり、自分自身の宝物をどうやって見つけたらいいのか、教えてくれるのだ。

boy今生きているグルを絶対に持つ必要はないが、やはり生きたグルを強く薦める。あなたにはゴールがあるのがわかっていて、そのゴールにたどり着きたいと思っている。もしあなたが賢明なら、一最も容易く、安全に、そして効果的にゴールにたどり着くための道を示してくれる人の助けを受け入れるはずだ。神を悟るのに何百年も何千年もかけたいのならば、スピリチュアル・マスターを持つ必要はない。しかし、もしなるべく早くゴールにたどり着きたいのなら、先生は絶対に必要だよ。

マスターは、あなたの内的成長をうながしてくれる。スピリチュアル・マスターというのは、スピリチュアル・ライフにおけるあなたの家庭教師なのだ。家庭教師<チューター>の先生<ティーチャー>とは大きく違う。普通の先生は生徒の答案を見て、点数をつける。生徒に試験をさせて、通すか落とすかを決める。ところが家庭教師は、生徒がテストに合格出来るように個人的に励まし、鼓舞してくれるのだ。人生の旅路では、毎秒毎秒、〈無明〉からの試験がやってくる。しかしあなたの家庭教師は、どうやれば簡単にその試験に通ることが出来るのか教えてくれる。なるべく早く〈至高なるもの〉を悟れるようにシーカーを鼓舞し、アスピレーションを高めるのがスピリチュアル・マスターの仕事なのだ。

この世では、何を習うにも最初は先生が必要になる。数学を勉強するにも、歴史を学ぶにも先生が必要だ。人生の他の事なら何でも、学ぶためには先生が必要なのに、瞑想に関してだけは違うというのは理屈に合わない。自宅で自習出来るのにみんな大学に行くのは何故だろう? それは、ある分野について専門知識を持ったプロから教えてもらえるからなのだ。ほとんの真の知識人と呼べるは皆大学へ行っている。もちろん例外もある。どんなルールにも必ず例外というのはあるものだ。

神は誰の中にも存在する。だから、もしあなたが人の助けは必要ないと感じるなら、自分の力だけで試してみるといい。ただし、もしあなたが賢明で、つまずいたり、ただ歩くのではなく、ゴールに向かって走りたいと思うならば、グルの助けというのは計り知れないものがある。現在、おそらく私は今、ロンドンに居る。海の向うにニューヨークがあることは分っている。ニューヨークに戻らなければならないとしたら、そのためには何が必要だろう?飛行機とパイロットだ。飛行機が私をニューヨークに運んでくれるという事実をわかっているのに、パイロットなしではそこへはたどり着けないだろう?同じように、あなたは神が存在するということは知っている。瞑想を通じて神にたどり着きたいのだが、誰かがそこまで連れて行ってくれないと行くことは不可能だ。パイロットがニューヨークまで私を連れて行ってくれるように、誰かがあなたを、あなたの奥深くにある神の意識へ連れて行ってくれるのだ。瞑想を通して自分自身の神聖さにどうやって入っていったらいいのか、誰かに教えてもらわないといけないのだよ。スピリチュアル・マスターはあなたのもとへ船でやって来るとこう言うだろう。

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「さあ来るがいい!〈黄金の岸辺〉<ゴールデン ショアー>に行きたいのなら、この船で連れて行ってあげよう。それだけじゃない、私の船なら、歌っても踊ってもいい。眠っていたっていいのだよ。それでもあなたをその〈岸辺〉まで安全に運んであげから。」

もしあなたが誰の助けも欲しくないというなら、無明の海を1人で泳ぎ切りたいというなら、それはあなた自身で決めるがいい。ただし、それは何年、何人生かかることか分らないし、その上しばらく泳いだら、疲れ切って溺れてしまうかも知れない。グルなしでは、あなたの前進はとても遅く、また不確実になってしまう。遥かな高みへと昇って行くような内的体験をしても、それをそれほど重要なものとは思わないまま、忘れてしまうかも知れない。または疑いがあなたのマインドの中に入ってきて、「私はただの普通の人間なのに、あんな経験をするってことがあるのだろうか? 自分をだましているだけかもしれない。」と思うかも知れない。または友人に自分の経験を話すと、「そんなの全部幻覚だよ!」と言われてしまうかも知れない。しかし内的現実とは何であるかわかっている人がいれば、あなたの内的経験はまさに本当だったと確信させてくれる。師<マスター>は求道者<シーカー>を励まし、インスピレーションを与えてくれる。

そして、もしシーカーが瞑想で何か間違ったことをしていたら、矯正してくれるのだよ。コースを取り終えたら、先生はもう必要ない。歌を学びたかったら、プロの歌手のところに行って歌を学ぶだろう。踊りを習いたかったら、プロの舞踊家のところに行く。上手な歌い手、または踊り手になったら、もう先生のところに行く必要はない。
それはスピリチュアル・ライフでも同じことだよ。最初は助けが必要だが、一度本当の上級者になれば、もう誰の助けも必要ない。もしその人がマスターの真の弟子になったら、自分とマスターが二つの別々の存在だとは感じなくなる。グルは木のてっぺんにいて、自分は木の根元にいるのだ、などとは思わない。そうではなく、その弟子は、グルは自分自身の一番高い部分なのだと感じる。自分とグルは一つで、グルというのは自分自身の最も高く、最も発達した部分なのだと感じるのだよ。だから、真の弟子は自分の最も低い部分を自分の最も高い部分に委ねることに、何の抵抗も困難も感じることはない。献身的な弟子になることは、プライドにかかわることではないのだ。最も低い部分も、最も高い部分も、どちらも自分自身のものだとわかっているからなのだ。

あなたにインスピレーションを授ける人
それが本物の先生だ
あなたを愛してくれる人
それが本物の先生だ
あなたの背中を押してくれる人
それが本物の先生だ
あなたを完成させてくれる人
それが本物の先生だ
あなたを宝物のように扱ってくれる人
それが本物の先生だ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想:人に奉仕する


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


世の中を変えようとしないこと
きっと失敗する
代わりに世の中を愛してごらん
すると、世の中はどんどん変わってゆく
果てしなく、いつまでも

瞑想人に奉仕する

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Q: 瞑想するためには、まわりを遮断して独りきりになり、人を拒絶すべきでしょうか?

A: 人類とは神の分かち難い一部分なのだ。人を拒絶して、どうして神聖さを受け入れることが出来るだろうか?われわれはこの世を、今あるがままに受け入れなければならない。受け入れずに、どうやって変革することが出来るだろうか?陶芸家が粘土の塊に触れずに、どうやって壺の形にすることが出来る?瞑想する者は人類の中で神聖な勇者のように振舞わなければならないのだよ。

現在の人類は完成には程遠いところにいる。しかしわれわれもまた、その人類の一部なのだ。自分の体の一部のような兄弟姉妹をどうやって見捨てることが出来る? もし見捨ててしまったら、世の中でうまく行動する自分自身の能力を狭めてしまうだけなのだ。人類を自分のものとして受け入れないといけない。もし自分が他の人にインスピレーションを与える立場にいるなら、もし他の人より一歩進んだところにいるなら、それは後の続く者たちの中の、神聖な存在に奉仕する機会を与えられていると云うことなのだ。

あなたがたは世の中に対峙した上で、世の中で〈至高なるもの〉を悟る必要がある。逃避の人生を送ってはいけない。逃げるのは誰だろう? 怖がっていたり、またはひどく悪いことをしてしまったと思っている者だ。われわれは何も悪いことはしていない。だから周りを怖がる必要はない。世の中を怖がっていたら、すべてに対して恐れを抱いてしまう。今われわれに見えるのは、周りにある巨大で不完全な世の中だ。自分を守るためにそこから逃げようとしている。だが、現在の世の中よりもはるかに恐るべき敵は、まさに自分自身のマインドに他ならないのだ。たとえ洞窟にこもったとしても、マインドから逃げることなど出来っこない。いつも自分に付いてくる。しかもこのマインドは、〈不安・嫉妬心・混乱・疑い・恐れ〉その他の神聖でない資質で溢れている。このマインドのせいで、人生の戦場に留まらざるをえないようになっているのだよ。もしこの世に生きているうちにマインドを克服できないのであれば、単に日常の世界から肉体を遠ざけることが何の役に立つと云うのだ。

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瞑想するのにヒマラヤの洞窟に入っていく必要もないし、入って行っていけない。人類の中にある神聖な存在に献身することによって、世の中の実相を変革しようとし
なければならないのだ。

瞑想は逃避ではない。この地上で神聖な〈真実〉を、最高に体現するために世の中を変革すると云うビジョンのもと、世の中全体を受け入れること大切だ。自分の内的〈平安〉と前進のためだけに瞑想したい者や、世の中に何も捧げようとしない者は自分勝手な連中だ。また一方で、世の中に何かを捧げたいけれど、捧げるに値する何かを得るために瞑想することはしたくないと云う者もいるが、これは実に愚かなことだ。何も持っていないのに、どうしてそれを捧げることが出来る?

この世には何かを捧げたいと云う者はたくさんいるが、彼らは一体何を持っていると云うのだろう?

自分のやるべきことをやらねばならない。まず達成してから捧げることだ。このようにすれば、神を満足させ、また人類を満たすことが出来る。

世の中を変えたいのかな?
それならまず自分自身を変えること
自分自身を変えたいのかな?
それなら静寂の海の中で
完全な静けさを保つことだよ

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想:現実的な問題解決法


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想は現実的なのだろうか?

ある人が日常生活で正しいタイミングで正しいことをする時、その人のことを分別があって現実的だと云う。その人は他の人にだまされないように、また社会生活がスムーズに運ぶように、ある一定のやり方で考え、行動をする。しかし、たとえどんなに賢く、どんなに誠実で、どんなに意識して生活していようと、現実社会の生活で途方にくれてしまう場合がある。

「何を言っていいかわからない。」
「何をしていいかわからない。」
「どう振舞っていいかわからない。」

または、正しいことを言ったり、行ったりしているにもかかわらず、すべてが悪い方へ行ってしまうことがある。

この社会の現実経験とどう付合っていったらいいかわからず、人生を管理することができないのだ。心から何かをしたい、または何者かになりたいのに、出来ないのだ。

なぜこのようなことが起こるのだろう?

それは、われわれの外的な力は、常に内的な気づきの限界によって制限されているからなのだよ。しかし内的生活で現実的であれば、つまり祈り、瞑想すれば、限りない〈内的気づき〉を持つようになる。内なる気づきがある人は、無限の真実と永遠に続く喜びに自由にアクセスでき、外的生活を簡単にコントロールすることが出来る。

精神生活<インナーライフ>は常に真実<リアリティ>と神のメッセージを運んでいる。〈真実〉のあるところには〈種〉がある。〈種〉に芽を出し、木になってもらうことにしょう。木に実がなるとき、内面世界の力が現実世界で体現されるのが見える。常にわれわれは、外側からではなく内側から成長してゆくのものだ。

社会生活<アウターライフ>で何をしようが、何を言おうが、〈真実〉の光明に近づいてはいない。しかし、まず瞑想し、それから行動し、話すのなら、正しいことをし、正しいものになって行く。精神生活<インナーライフ>と内的現実<インナーリアリティ>が社会生活を導いていかねばならない。その逆ではないのだ。

社会生活の命の息吹は精神生活から来る必要がある。内的現実が社会生活に入って行かねばならないのだ。そうして初めて、社会生活で本当に現実的になることが出来るのだ。

Q&A

Q: 日々の瞑想から、自分が抱えている疑問に答えていくことができますか?もし出来るなら、その答えがマインドでなく本当にハートや魂から来たものなのか、どうやってわかるのでしょうか?

flower-of-light3A: どんな疑問であっても、瞑想中または瞑想の後で、答えを見つけることが出来る。自分の奥深くに入って行けば、答えは必ず得ることが出来る。ただ答えが来たら、それが魂から来たものなのか、マインドから来たものなのかを見極める必要がある。もしその答えがハートか魂から来たものなら、安堵と〈平安〉を感じるはずだ。そしてその答えを否定するような対立する考えは、何も浮かんでこない。しかしその答えがハートか魂から来たものでないのなら、マインドが前面にやってきて、あなたが受け取った考えに対立することになる。

マインドから来たメッセージには確実性がない。マインドはこの瞬間には一つのことを言い、次の瞬間にはまた別のことを云う。この瞬間には私のことを「とてもいい人だ」と告げたかと思うと次の瞬間には「いや、あいつは悪い奴だ」と云うのだ。しかしハートは常に同じメッセージを提供する。朝に瞑想すると、あるメッセージをもらう。そして夜瞑想してもハートからは、朝と同じメッセージを受け取るのだ。

誰か、 ―たとえば上司―に会うように内的メッセージを受け取ったら、ただその人に会いに行く。しかしそのメッセージがマインドから来たものであるなら、会いに行く前にマインドの中でたくさんの疑問が沸き起こってくる。そしてやっと会いに行ったのに、その結果が満足出来るものでなかったとすると、今度は自分を責めて、「ほら、やっぱり会いに行かなきゃよかった。あれウソのメッセージだった。」と云うのだ.

しかしもしそのメッセージが魂から来たものなら、確固とした確信があり、成功しても失敗しても同じように満足する。メッセージの通り行動している間は自分の望むような結果を期待したりはしない。上司が自分に満足してくれるかどうか、何か自分のためにしてくれるかどうかといったことは何も期待しないのだ。ただ実行し、その結果が成功と云う形で来ようと失敗と云う形で来ようと、正しいことをしたのだと感じるだけだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

朝の瞑想が一番


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


front_jharna_kalaもし神の御顔が見たいなら
毎日少なくともいくらかの時間を過ごさないといけない
神の選ばれし道具であるあなたのハートと共に

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

ただ目を閉じて、頭に漂っている心地良い思いを楽しむだけの瞑想を五~六回やるより、一日一回でいいからしっかり瞑想した方がいい。瞑想のたびに、自分は〈命の息吹〉を〈スープリーム〉に捧げ、〈魂の光〉を前面に持ってきていると感じなければいけない。そうして初めて、瞑想は意味のあるものになる。もしあなたが、魂を込めて瞑想することが、一日に一回早朝に行うのが精一杯だと感じているなら、それで充分だ。そこにあなたの本当の受容力、誠実さ、やる気、悦びが見えることが何より大切だ。もしそこにインスピレーションがあれば、それは〈スープリーム〉から〈励まし〉と〈許可〉を貰ったということだ。つまりあなたはとても速く走って行くことが出来るだろう。また、昼休みや三時の休憩に瞑想する者もいる。すばらしいことだ。でも、早朝の瞑想も必要だ。朝早く、正しいことをして一日をスタートすることができれば、あなたは一日中インスピレーションを受けた状態でいることが出来る。

朝の瞑想が一番

7-200x300朝の時間に瞑想すれば、それはとても実りあるものだということがあなたにもわかる。太陽が昇る前、地球の意識はまだかき乱されてはいない。世の中は、まだその日の喧騒の中に入っていないからだ。自然はまだ静かで落ち着いている。このことは、あなたが瞑想をする上で、大きな手助けになる。自然がぐっすりと眠っている間は、人の内に巣くう動物の部分、つまり光があたっていない意識もやはり眠っている。その時まだわれわれは、活力を与え、満たしてくれる夢の世界にいる。そしてそこから現実<リアリティ>が育っていくことになる。だから、アスピレーションを持つ目覚めた意識は、朝の瞑想から得るものが一番多いのだ。

陽が昇ると、母なる大地<マザー アース>は神聖に活動的になるか、あるいは神聖さのない落ち着きのなさを持つようになる。特に西洋では、現在のダイナミックな性質のために、宇宙あるいは外の自然に、ある種の苛立った感覚がある。このような落ち着きを欠いた世の中の性質は、あなたにとっては不要なものであるにもかかわらず、入ってきてしまうことが多い。人が活動し始めた途端、あなたがどこにいようが、たちどころにその波動はあなたの中に入ってきてしまう。大気、光、あなたの周りにあるすべてに、人間の活動と不安感のもつ波動が浸透してしまうのだよ。まるでそれはうなり声をあげるライオンのように、世の中はあなたの目の前に立ちはだかっている。うなるライオンの前で、どうやって最高の瞑想に入れるというのだろう? だが世の中が目覚める前、宇宙がまだ静かで、周りの人たちが休んでいる間なら、あなたはより深い瞑想をすることが出来る。

日中に瞑想するのはとても難しい。夜の瞑想も幾分なりと難しいものがある。なぜなら八時間から十時間、あなたは世間の喧騒の中にいたからだ。日中アスピレーションのない人たちにたくさん会い、そして無意識のうちに、その人たちの神聖でない考えや不純な思いがあなたの中に入ってきてしまっているのだ。内的に非常に強くない限りは、世の中からアスピレーションもインスピレーションもない力をたくさん自分の中に取り入れてしまっているのだ。だから夜に、朝と同じレベルの希望と神聖さをもって瞑想するのはとても難しいのだよ。瞑想の前にシャワーを浴びたり、あるいはスピリチュアルな人と交わったりすることは良いことだ。

朝になるとこのような神聖でない力や経験は、少なくともしばらくの間は、記憶から消え去っている。寝ている間にあなたの中に入ってきていた不純なものはすべて洗い流されてしまっているのだ。その時あなたの魂は、まるで〈聖なる盗人〉のように静かにあなたを観察している。普通の泥棒はあなたから何かを盗んで行くが、この〈聖なる盗人〉はただただ与えるだけなのだ。ある場所で〈平安〉が必要なら、魂はそこに〈平安〉を持ってきてくれる。魂はちょうど母親のように振舞う。子供が寝ている間、早朝そっと部屋に入ってきて、日中に必要なものを用意しておいてくれるのだ。夜寝ている間魂は、あなたに必要なことをやってあげられる機会を持てるのです。しかし、あなたが日中、外の世界の活動に夢中になっているときは、魂はあなたに与えることも、あなたが魂から受け取ることも非常に難しい。だから、朝の瞑想が一番なのだよ。

美<ビューティ>がやってきた
まるで朝のバラのように
務め<デューティ>がやってきた
まるで朝の太陽のように
神聖<ディヴィニティ>なるものがやってきた
まるで朝のアスピレーションのように

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

良い瞑想とは?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


JAC_1178

 

スピレーションで行う努力は
いつも
満足のいく結果をもたらす
時には時間がかかるかもしれない
しかし、
間違いなく、結果がついてくる

 良い瞑想とは

求道者<シーカー>からよく質問されるのが次の三つだ。

1  自分が果たして正しい瞑想をしているのか?

2  それとも自分をごまかしたり幻覚を見たりしているだけなのか?

3  それはどうやったら識別出来るのか?

その答えはとても簡単だ。もしあなたが正しい瞑想していれば、自然に湧き上がってくる内的な悦びを感じるはずだ。それは誰かが良い知らせを持ってきてくれたからでもなく、プレゼントを貰ったからでもなく、褒められたり感謝されたりしたからでもなく、何かをしてもらったわけでもないのに、こころの中に悦びを感じる。もしこんな風に感じていれば、あなたは正しい瞑想をしていると云える。しかし頭に緊張感や動揺を感じるようなら今あなたがやっている、今している瞑想のやり方はあなたに不向きだと云うことだ。

5もし頭の中で幻想を楽しんでいるだけなら、〈平安〉は内側にあって、落ち着きのなさは外側にあると、感じているはずだ。つまり〈平安・光明・歓喜〉を切望しているのに、外面的には火山の震動のようなものを感じている。もしあなたが本物の瞑想、最高の瞑想をしているなら、内にも外にも間違いなく〈平安〉を感じるはずだ。もし魂からの瞑想をしていれば、自分は永遠の存在なのだと云うことがはっきりわかる。そして自分は永遠のものであり、永遠のためにあると云うことを感じる。この感覚は幻想で得られることはまずありえない。

もう一つ、正しい瞑想をしているかどうか見分ける方法がある。もしあなたが本当に、より高い内的領域に入って行っているのならば、体がとても軽くなっていくのを感じるはずだ。翼があるわけではないのに、まるで空が飛べるかのように感じられる。実は、至高の世界に達する,、ちょうど 本物の鳥のように簡単に飛べる鳥が、自分の内側にいるのがわかるようになる。

自分で想像しているだけの瞑想では、数分の間だけはとても甘美な思いに浸ることが出来るが、その直後には暗く、がっかりするような考えが浮かんでくるものだ。それは「一生懸命勉強したのに、テストはうまく行かなかった。」とか、「今日は会社で本当に一生懸命働いたのに、上司は満足してくれなかった。」などと云うものだ。このような失望と云う形をとった否ネガティブ定的な力が、すぐにあなたを包んでしまう。

あるいはまた猜さいぎしん疑心がやってきて、「昨日あんなにたくさん悪いことをしてしまったのに、んなに良い瞑想が出来ることがあるのだろうか? 神が私に満足して下さるなんてありえない! 高い瞑想が出来るなんて、ありえない!」などと云うかもしれない。しかし本当に高い瞑想ならば、自分の全存在が聖なる鳥のように高く、より高く、遥かな高みを飛んでいくのを感じる。この感覚がある間は、〈悲しさ・失望・疑い〉といった否定的<ネガティブ>な思いは全くない。

あるのはただ歓喜の空を舞う、〈喜び・平安・至福〉だけなのだ。

良い瞑想をしたかどうかは、瞑想をした後の気持ちのあり方でわかる。瞑想の結果、〈平安・光明・愛・歓喜〉が前面に出てきたら、良い瞑想ができた証拠だ。

srichinmoysprintinghouston不完全さに溢れているにもかかわらず、世の中に対して良い思いを抱けるようなら、あるいは愛しい思いで世の中を見ることが出来るなら、その時あなたは良い瞑想をしたと云える。そして、もし瞑想の後で力がみなぎるよう<ダイナミック>な感覚を覚えて、この世にやって来たのは何かするため、何かになるため ―神そのものの姿になっていき、神の献身的な道具になるため― そう思えたなら、良い瞑想をしたと云うことなのだ。

しかし最も簡単な判定の仕方は、〈平安・光明・愛・歓喜〉が内側から前面にでてきたかどうかと云う一点に尽きる。

あなたはすでに用意万端のはず
なぜってあなたのアスピレーションの鳥は
あなたを捕らえ、目を覆うマインドの混乱の雲よりも
遥か高いところを飛んでいるのだから

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

音楽と瞑想:音と静寂

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音楽は
スープリームのハートの扉を開ける鍵を持っている
またその鍵そのものでもある。

harmoniumflower音楽…普遍の言語

音楽は神の内なる普遍の言語だ。私はフランス語も、ドイツ語も、イタリア語も話すことは出来ないが、これらの国の音楽が流れたら、すぐにその音楽の心が私の心に入ってくる。あるいは逆に私の心がその音楽に入って行く。この時、言葉でのコミュニケーションは必要なく、心と心の内なる合体で充分なのだ。私の心は音楽の心と一緒になって行き、その中で二つは分かち難く一つになる。

瞑想と音楽を分けて考えることは出来るものじゃない。瞑想の真髄は、心の奥底から〈平安・光明・至福〉を求めて泣き叫ぶとことにある。そしてこの瞑想の次に来るのが音楽、〈魂をこめた音楽〉なのだ。このような音楽は、遥かな高みへ行こうとするわれわれの意識を突き動かし、上昇させる。

あなたがたにとって瞑想を二十四時間するのは不可能だ。出来たとしても、二時間がいいところだろう。だから他の時間には音楽を演奏したり、聞いたりすればいい。魂からの精神的<スピリチュアルミュージック>な音楽を演奏したり聞いたりすれば、瞬く間に、より高い意識の領域に上がって行くことが出来る。魂から音楽を演奏すると、高く、より高く、何よりも高いところまで行くことが出来るのだ。

魂からの音楽を聴くたびに、インスピレーションと歓びが湧き起こってくる。その音楽は瞬く間にあなたの意識を高揚させる。しかし、さらに祈り、瞑想すれば、意識してスピリチュアルライフをしていない音楽愛好家より、もっと光明を受け、間違いなく満たされる。

スピリチュアルな音楽家と云うのはどの人も、意識的に神の光明を地球に振りまいている。神は宇宙の〈演奏家〉であり、われわれは神の楽器なのだ。しかし、やがてわれわれの進化の過程で、神と完全に一つになったと感じる時が訪れる。その時われわれはもう楽器ではなく、われわれ自身が音楽家、神聖な音楽家になる。

ふさわしい楽器を作り出すのはスープリームであり、演奏家がきちんと演奏出来るように奮い立たせて下さるのもスープリームなのだ。音楽をマインドで理解するのはやめること。また、ハートで感じようとすることさえする必要はない。ただ自然に、〈ハートの空〉を音楽と云う鳥に飛んでもらうことだ。鳥が飛翔する時、音楽が持つものと音楽そのものを無条件に顕す。音楽と云う鳥が持つものとは〈不滅〉のメッセージであり、音楽そのものとは〈永遠〉の調べなのだ。

音楽と瞑想Q&A

Q: 音楽の種類によっては、心が乱されたり、自分のスピリチュアルな状態を変えられてしまたりするものもありますか?

A: その通り、音楽には、内なる存在にとって本当に破壊的なものもある。このような音楽は、肉体か、低いバイタルから来ているのだ。神聖でない音楽は、低いバイタルの意識を目覚めさせ、興奮の世界へわれわれを投げ込んでしまう。スピリチュアルな人は、このような音楽に直ちに影響されてしまう。

Musical_performance音楽にはとてつもない力がある。「火」は火傷を引き起こすこともあれば、料理など他のいろいろ良いことにも使うことも出来る。音楽も同じで、神聖な音楽はすぐに意識を高めてくれが、神聖でないものはすぐに意識を落とし、より良いスピリチュアルな人生を送りたい、と云う誠実な内的叫びを台無しにしてしまう。バイタルの音楽はあなたの意識を落としてしまうのだ。ほんの数秒、あるいは数時間の間は、ある種の快感を得ることが出来る。しかし、この快感によって、あなたは誘惑が待ちかまえている低いバイタルの意識に連れて行かれてしまうことになる。誘惑の世界に続くのはフラストレーションの世界であり、そしてその次にあるのは破壊の世界なのだ。ご存じの通り、バイタルの音楽が世界中でとても流行っている。〈精神的な音楽〉はあ
まり広く親しまれているとは言えず、〈魂の音楽〉にいたっては、好む人はほとんどいない。一般の人にとって〈魂の音楽〉は、まるで自分の意識の中に入り込ん出来た見知らぬ人のように感じてしまう。だが実はこれは、スピリチュアルな音楽があなたの中の〈魂〉と云う永遠の住人を目覚めさせていると云うことなのだよ。魂は内側奥深くで、表へとに出てくるのを待っているのだ。

Q: スピリチュアル・ライフの助けになるように音楽を使うことが出来ますか?

A: もちろん、スピリチュアル・ライフ の助けになるように音楽を使うことは出来る。音楽とスピリチュアル・ライフは双子の兄弟のようなもの。二人を離すことは出来るものじゃない。共に肩を並べて生きている二本の指や二つの目を分かつことが出来るだろうか? 片方の目がよく見えなかったら、見え方が不完全だ、と感じるだろう?音楽とスピリチュアル・ライフの両立はたやすい。それはお互いどうしが補い合っているからだ。音楽は、求道者<シーカー>が人生<ライフ>・真実<トゥルース>・現実<リアリティ>から最大の充足を得ようとして、内に深く潜っていくのを助けてくれる。かわりにスピリチュアル・ライフは、音楽がその力と強さを広く世の中に捧げるのを助けてくれる。音楽の力と強さとは、つまり魂の光のことなのだ。

Q: 音楽で「魂からの、魂をこめた(soulful)」と云う時、それはどう云う意味なのですか?

A: 魂からの音楽とは、どんな音楽のことだろう?魂を具現した音楽のことだと思うのなら、それは間違っている。魂からの音楽とは、神聖なやり方で自身を表現したがっている光明<ライト>のことだ。闇は地球でその権威を振るいたがるが、〈光明〉もまた、自身の現実<リアリティ>と神聖さ<ディビニティ>を独自のやり方で現したいのだ。〈光明〉はすべてのものの魂だ。〈光明〉とは音楽の魂であり、愛の魂であり、芸術すべての魂なのだ。〈光明〉が音楽と云う形をとって神聖に自分自身を顕すとき、これを〈魂の音楽〉(The music of the Soul)と云う。

魂からの音楽とは、われわれの意識を直ちに至高の高みまで持ち上げてくれる音楽のことだ。魂からの音楽はわれわれをアスピレーションの世界に連れて行ってくれる。アスピレーションから〈悟り〉の世界へ入って行くのだが、そこでは自分の内インナービーイング的存在が光
明と歓びに溢れている。

58_My-music-embodies-魂からの音楽は、最終的にわれわれの意識を変革したがっている。われわれを〈普遍の意識〉に連れて行き、そこで最高の高み、最も奥深いところ、そして最も遠い彼方と調和しているのだと感じることが出来る。

魂からの音楽はまた、神そのものが〈至高の音楽家〉だと云うことに気づかせてくれる。魂からの音楽を奏でると、自分は音楽家ではなく楽器にすぎないことがわかるようになる。神はわれわれを、ちょうどピアノやバイオリンやギターのように、いつも演奏していることが分るようになるのだよ。本当に魂からの音楽を演奏すると、自分は楽器で、他の誰かがわれわれの中で、われわれを通して歌い演奏していると感じることが出来る。その誰かとはわれわれの〈内インナービーイングなる導き手〉、つまり〈スープリーム〉のことなのだ。

創造主である神は究極の音楽家であり創造物である神は究極の音楽である魂からの音楽を聴いたり、奏でたりすると、内的存在がすぐに高く、何よりも高く昇っていき、そして〈彼方〉へと入って行く。この〈彼方〉は常にわれわれを助け、導き、われわれを真の超越の姿、真の神聖さへと形づくってくれる。魂からの音楽を聴いたり演奏したりすると、自分の存在全体に、一種の内的感動を覚える。足の先から頭頂まで、自分の中を、河が、光明に輝く〈意識の河〉が流れているのを感じるのだ。

スピリチュアル・ライフでは、深い祈りと瞑想に続き、最も重要なのが音楽なのだ。瞑想と云うのはゴールへ向かうの直行ルート、言い換えれば近道だ。音楽は障害物が全くない道。瞑想よりも、もう少し時間はかかるかも知れないが、邪魔になるものは一つもない。魂からの音楽を演奏するか、あるいは聴くことが出来れば、あなたの瞑想の力はより強くなる。音楽、それも〈魂からの音楽〉はあなたのアスピレーションを高めてくれる。

同様に、もし求道者<シーカー>が音楽家になりたかったら、たとえ音楽の経験がなくても良い音楽家になることが出来る。と云うのも、祈りと瞑想がそれに必要な力をすべて持っているからだ。音楽を一度も学んだことがなくても、魂をこめて祈り瞑想すれば、祈りの中に、瞑想の中に、音楽の力が大きく浮かび上がってくる。これは〈スープリーム〉の恩寵のたまものなのだ。

Q: その音楽がスピリチュアルかどうか、その音楽家がアスピレーションを持った人であるかどうか、どうやったら分かるのですか?

A: その音楽家がアスピレーションを持っているかどうかは、あなたには関係ない。神だけが関知していれば良いことだ。スピリチュアルに見える人でも、その人の音楽があなたの意識を下げてしまうのであれば、それはスピリチュアルな音楽ではないと云うことになる。逆にその音楽を聴いて意識が高められるのであれば、それはスピリチュアルな音楽だと云うことが分かる。音楽家自身がアスピレーションを持っていて、音楽もスピリチュアルであると云う場合も時々はある。その場合あなたはとても幸運だ。何故なら音楽と演奏者の両方からインスピレーションをもらえることになるからだ。

Q: 魂からの音楽と一つになる一番良い方法は何でしょうか?

A: 魂からの音楽と一つになるために最も良いのは、内的に次のように確信を持つことだ。音楽を聴きながら吸い込む息は、直接自分の魂の中に入ってきていて、そしてそれと共に、〈普遍の意識〉、聖なる〈現実〉、聖なる〈真実〉もいっしょに入ってきているのだと感じ、そして次に息を吐きながら、自分の魂を覆っている無明もいっしょに吐き出しているのだと感じること。つまり呼吸と共に無明<イグノランス>と云うベールが剥がされ、次々と捨て去られているのだ。このように意識して想像し、感じることが出来れば、これが魂からの音楽と一つになる最も良い方法なのだ。

〈音楽は神の夢〉

それがどんな形をして

何をしてくれるものなのかを知る必要はない

〈音楽がある〉と云うそのことで

私達は生き続けられる

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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マントラとジャパの練習


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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すべてを浄化する

もし自分の性質全体を浄化したいのなら、段階を踏み、計画的にジャパを行うことが効果的だ。第一日目には〈オーム〉か〈スープリーム〉か、またはあなたの先生<マスター>がくれたマントラを、ともかく五百回繰り返すこと。二日目は六百回、そして三日目は七百回と云うように、一日百回ずつ増やしていき、一週間後には千二百回に達するまで行う。次に、千二百回まできたら、今度は一日百回ずつ減らしながら、五百回に戻るまで続けてみるといい。こうしてあなたは木に登り、そしてまた下りてくることが出来るのだ。

この練習<エクササイズ>を毎週続け、全部<トータル>で一ヶ月はやるように。

すると終った暁には、好むと好まざるとにかかわらず、世の中はあなたに〈純粋〉と云う新しい名前を授けてくれることになる。

ジャパを行っている間、回数<カウント>をまちがえてしまってもかまわない。「ほぼこのぐらいかな?」と思うところから続けるといい。数を数えるのは、あなたの意識をカウントに繋いでおくためだ。数を数えている間あなたの頭<マインド>は、他の人や他の事を考えないだろう?

次に数えながら、同時にマントラの奥深くにある静寂の世界に入って行くようにしてみるといい。一度入ってしまえば、もう数える必要はない。そこでは「自分が繰り返しているものに意識を集中し、自分がマントラの内的な意味だけに瞑想している。」と感じ始めるようになる。

Yahva meditating: Tokyo Sri Chinmoy Centre, Free Meditation Lessonsマントラは常に、声に出して唱えるのが一番いい。しかし数分後に、もし内側に誰か、 ―それはあなたの内的存在― がいるのを感じて、そしてその存在が自分の代わりにマントラを繰り返してくれているのが分ったら、もうその時は声に出して唱え続ける必要はない。ハートの静寂の中で、あなたの内的存在<インナービーイング>があなたの代わりにジャパを行い続けててくれるからだ。

ジャパは朝か日中に行うべきで、床に就く前にはしないほうがいい。一日の仕事で体が疲れて、これから眠りの世界に入りたがっている時にジャパを行ったら、マインドはイライラして、一点に集中することが出来なくなってしまう。また、ただマインドを機械的に動かしているだけになってしまい、そこから何も得るものはない。またジャパは誠実に、魂から行われなければ意味がない。だから寝る前であれば百回か二百回か、せいぜい三百回にとどめておくべきだ。寝る前に瞑想すると、〈平安・光明・至福〉を呼び起こすことが出来る。しかし、もし、ジャパを五百回から千二百回行うと、力強さとエネルギーを画喚起することになってしまい、その結果あなたは眠れなくなってしまう。

ジャパを終えた後で、ハートの中でそのマントラがまだ繰り返され続けていることに気づくことが往々にしてある。これは自らが唱えていないのだが、内なる存在が自然にマントラを唱え始めた結果にほかならない。

Q: 〈Aum〉を一日五百回繰り返すことによって自分の純粋さを増やしていける、とおっしゃっていました。でも私にとって〈Aum〉を一日に五百回も唱えるのはとても難しいことなのですが。どうしたら良いか、アドバイスをいただけますか?

A: 一気に唱えるのが難しいのなら、何回かに分けて唱えるといい。十回に分けて、五十回ずつ唱える、と云うのでもかまわない。例えば、一日に水をコップ十杯飲むとして、一気に十杯全部を飲むことは出来ないだろう?

だから今一杯飲んで、一~二時間たったらもう一杯飲めばいい。こうすれば水を十杯飲むのは実に簡単だ。

〈Aum〉を五百回一気に唱えるのではなく、朝早くに五十回唱え、一時間後にまた五十回唱える。このように毎回五十回ずつ唱えれば、一回につきかかる時間は、一~二分程度にしかすぎない。一時間のうちたった二分間を神に捧げるのは簡単なことだろう? だからこのやり方でやってみるといい。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

マントラの力


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


harmoniumflower唱える:マントラとジャパ

マントラとは繰り返し唱えるための神聖な言葉だ。一音節のときもあれば、一語、数語、あるいは一文のときもある。そしてマントラを何度も繰り返して唱えることをジャパと云う。マントラは神の一側面を現したもので、一つ一つに特別な意味があり、内的な力を持っている。

マインドが落ち着かず自分なりの深い瞑想に入っていけないそんな時は、マントラを使ってみる良いチャンスだ。

〈スープリーム〉、〈オーム〉、〈神様〉などと云うマントラを何分間か唱えてみてごらん。また、感情的なバイタルの領域が攻撃を受けて、悪い考えや悪いエネルギーの振動が入ってきてしまっている時も、〈オーム〉や「スープリーム〉等のマントラを唱えるのは効果的だ。その場合はなるべく早いスピードで唱えること!

既にマインドにある不純なものを浄化したいのなら、動き出した電車に追いつこうとして走っているかのように、急いで唱えなくてはならない。

しかし普段のジャパの場合は、普通のスピードで魂からマントラを唱えるようにすること。また、その際あまり音を伸ばし過ぎてはいけない。あまり長く伸ばすと、少なくとも五百回あるいは六百回と唱える必要があるのに、その時間が足りなくなってしまうからだ。

内なる音

瞑想中に、自分では声に出して唱えてはいない。また供に部屋にいる誰も口に出して唱えていないにもかかわらず、〈オーム〉と云う音が聞こえる時がある。これは内的に誰かが〈オーム〉と唱えたか、今唱えているところだと云うことなのだ。そして瞑想の部屋がその音を失わずにとっておいてくれたからなのだ。

マントラは、運転中や道を歩いている時、あるいは地下鉄やバス停等の公共の場所にいる時でも出来る。道を歩きながら心の中で唱えるのは現実逃避ではなく、アスピレーションのない世間から自分を守ろうとしているだけなのだ。それは、内的な強さと内的な受容力を増やしてくれる。やがて内的に強くなれば、もうマントラは必要じゃない。どこへ行っても、気持ちを乱されることはない。

スピリチュアルな鍛錬にはどのやり方にも、必然の分かち難い翼がニつあるそれは、徹底した忍耐強さと固い決心公共の場所でも高い意識を保とうとしたり、心の奥深くに潜って平安を前面に持ってくるのは難しいかも知れない。しかし、たとえ外的世界の騒音やせわしさに囲まれていたとしても、それよりさらに大きな音を簡単に前面に持ってくることが出来る。このさらに大きな音と云うのは、破壊的なものではなく、揺るぎないパワーを持つ音なのだ。それはあなたが、どれだけ素晴らしく神聖になる可能性をもっているかを感じさせてくれる。もしハートから来る、神聖な内なる音を前面に持ってくることが出来れば、またはその内なる音に自分が入っていくことが出来れば、世の中の外的な音など比べ物にならないと云うことが分かるだろう? ついさっきまで気になっていた音が、もう気にならないことに驚くはずだ。それどころか、騒音ではなく自分の内的存在が奏でる聖なる音楽を聴ける、と云う一種の達成感を感じることも出来るのだ。

srichinmoyesraj2-100x150オーム〉の真髄

オーム〉は一つの音であり、分割することが出来ない。これは〈スープリーム〉の振動であり、また〈オーム〉は宇宙の音の種である。この音により、神はその創造物の最 初の振動を創り出した。

マントラの中で最も力に満ち溢れたものが〈オーム〉なのだ。〈オーム〉はすべてのマントラの母だ。

〈オーム〉の中で神は自らを毎秒毎秒新しいものにしていく。

〈オーム〉には生も死もない。

かつて〈オーム〉だけが存在し、今も存在し、そして永遠に存在し続けて行く。

〈オーム〉はサンスクリット語で一文字だが、それを英語のアルファベット三文字で表すこともある。しかし発音する時は一つの音節として発音される。〈Aum〉と云う音節はこれ以上分かつことが出来ない。と同時に各部分が〈スープリーム〉の違った側面を表している。〈A〉の部分は創造主としての神の意識を現している。〈U〉の部分は維持する存在としての神の意識を現している。〈M〉は変革者としての神の意識を現している。

全てが合わさった〈Aum〉は、自然に湧き上がる宇宙のリズムであり、神はこれで宇宙を抱擁するのだ。〈Aum〉の音は独特だ。一般的には、二つのものがぶつかり合った時に音が生じるものだ。しかし〈Aum〉にはそのような動きは必要ない。アナハタといって、ぶつかり合っていない、音なき音なのだ。ヨギ、またはスピリチュアル・マスターはハートの一番奥で自然に湧きあがる〈Aum〉を聞くことが出来る。

〈Aum〉を唱える方法は数多くある。大声で唱えれば全能のスープリームを感じ、静かに唱えれば〈スープリーム〉の歓喜を感じることが出来る。また声に出さずに唱えれば、〈スープリーム〉の平安を感じることが出来る。

〈スープリーム〉によって生み出された宇宙の〈Aum〉は無限の海だ。人が唱える個々の〈Aum〉 はその大海の一雫なのだ。しかしその一雫を大海から切り離すことは出来ないし、それは無限の海を完全に自のものとすることが出来る。人が〈Aum〉を唱えるとき、至高の〈音〉の宇宙の振動触れ、それを呼び起こすことが出来る。

〈Aum〉は声に出して唱えるのが最も良い。その音が実際耳の中でも響き、体中に広がってゆくからだ。これで外的なマインドは納得し、あなたはより素晴らしい喜びと達成感を得ることが出来る。声に出して唱える場合、〈M〉の音は少なくとも〈AU〉の三倍長く云うように。

その人がどれだけ深刻な間違いをおかそうと、心の奥底から〈Aum〉を何回も唱えれば、全能の〈スープリーム〉の慈悲の御心は許してくださる。〈Aum〉の力で瞬く間に闇は光明に、無明は知識に、死は不滅に変革されるのだ。

〈Aum〉には無限の力があり、ただ〈Aum〉を繰り返すだけで神を悟ることが可能だ。神が持つものすべて、そして神の存在すべてを、内的にも外的にも、〈Aum〉    は与えることが出来る。〈Aum〉は神の命であり、体であり、と同時に息吹でもあるからなのだよ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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祈りと瞑想:羽ばたくための 2 つの翼


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


boy祈りは平和な人生をあたえ
瞑想は美しいハートをもたらす

祈る時、神は自分より高いところ、頭の上の方にいると感じている。
瞑想する時、神は自分の内深く、ハートの中にいると感じている。

(…)

祈りは純粋だ。マインドはいつも猜疑心、恐れ、心配、不安にさらされ、誤った考え、間違った動きに襲われている。祈りはそれを浄化してくれる。祈りによりマインドは純粋になり、その純粋さは神を受け取る力を高めて行く。

純粋さとは、何を隠そう、神を受けいれる力のことなのだ。祈るたびに内的な器は、どんドん大きくなり、さらに大きく、何よりも大きくなってゆく。すると〈純粋さ・美しさ・光明・喜び〉はその器に入ってきて、ハートの一番奥で共にたわむれる。

瞑想は光の輝きだ。それはハートに光明をもたらす。ハートに光が当たると、不安感や欠乏感は消滅してしまう。その時われわれは、宇宙の意識と超越の意識との分かちがたい一体感の歌を歌う。われわれのハートが光明に照らし出されると、有限なものは無限の中に入り、無限そのものになる。何千年も続いた束縛は消え去り、無限の真実<トゥルース>と光明<ライト>の自由がわれわれを出迎えてくれる。

祈りは神にこう云う。「愛するスープリームよ、あなたは私のもの。あなたは紛れもない私のものなのだとここに宣言します。神聖な資質を尽きることなくお与えください。この地球で私があなたの完璧な道具になれるように。」

瞑想は神にこう云う。「ああ、愛するスープリーム、私はあなたのものです。あなたの御こころのままにいつでも私をお使いください。いつまでも、いつまでも。私を通し、ここ地球で、そして天国で、御自分を満たしてください。」

祈りの最もふさわしいありかたは、日々それを行うと云うこと
瞑想の最もふさわしいありかたは、魂から経験すると云うこと
ヨーガの最もふさわしいありかたは、誠実に生きると云うこと
神の最もふさわしい定義こそは、
神を、神だけを、無条件に愛すると云うことだ

祈りとは絶対的な勢いをもち、空高く上に向かって舞い上がってゆくものだ。祈るとき、それは自分の存在が一点を指し、上に向かって舞い上がっていく炎のように感じる。足の先から頭頂まで自分の存在のすべてが上に向かって祈り、叫んでいるのだ。昇ることによって手を伸ばし神に届くこと、これが祈りなのだよ。

瞑想とは広く広大で、最後には〈無限〉に広がっていくものだ。瞑想では、広大な広がり、限りない平安と至福の海の中へ自分を投げ込む。あるいは自身の内に、無限の〈広大さ〉を呼び入れる。祈りは昇り、瞑想は広がって行く。瞑想は常に〈平安・光明・喜び〉の中で大きくなり広がってゆく。瞑想すると、徐々に光明と歓びの宇宙全体を見、感じ、そして自分がその宇宙そのものになってゆく。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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Tokyo’s goals

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瞑想のためのアフォリズム集

Tokyo hardly ever cries.
Tokyo rarely smiles.
Tokyo soulfully tames her outer life.
Tokyo manfully braves her inner knife.
Tokyo’s outer goal
Is everywhere in the heart of nowhere.
Tokyo’s inner goal
Is nowhere near frustration,
humiliation or consolation.
Tokyo’s inner goal
Is in her mind’s perfected
Silence-Light.

質問:集中・瞑想・観想


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


Q: 座って瞑想を始めるのですが、マインドを静めておくのにひどく集中しなければならず、なかなか内なる自己に触れることが出来ないのです。

Yahva meditating: Tokyo Sri Chinmoy Centre, Free Meditation LessonsA: あなたは気づいていないかもしれないが、それはごく正常なことだ。マインドを落ち着かせ、静かにしようとしていると云うことは、集中していると云うことにほかならない。なぜなら集中では思考と感情をコントロールし、そして集中から瞑想への道が切り開かれなくてはならないからだ。瞑想するには、感情的生活と落ち着きのないマインドは、すでにある程度訓練していないとだめだ。マインドを悩ませる思考をすべて追い払うのに成功したら、遅かれ早かれあなたの内的存在が前面に出てくることになる。それは丁度覆っている雲を一掃する灼熱の太陽のようなものだ。今のところ内なる太陽は思考、疑い、恐れなどといった雲に覆われてしまっている。この雲を追い払うことが出来れば、内的な自己が目の前で輝き、明るく光を放っているのがわかるようになる。

Q: 集中しているのか瞑想しているのかどうしたらわかるのですか?

A: 集中の場合にはとてつもない勢いがある。それは丁度的に向かって飛んでゆく矢のようなものだ。勢いのある力から活力をもらっていると感じるのなら、それは集中の結果だ。一方瞑想では、平安と広大な感覚がまわりすべてにあり、特にマインドにそれを感じる。自分の奥深くにどこまでも広がる〈平安・光明・至福〉の海を感じるなら、これは瞑想によるものだ。瞑想とは平安、静寂、そして広大さだからだ。集中と同じく勢いもあるが、その勢いは輝く光で満たされている。集中の場合には至高で輝く光は必要ないし、また殆どそのような光もない。

また集中はすぐに結果を欲しがる。ゴールに到達するためなら何でもする覚悟が出来ている。瞑想は意のままになる時間が無限にあると感じる。これは過ぎゆく時間を軽視している訳ではなく、過ぎゆく時に価値を置きつつも、過ぎゆく時の中に永遠の時が見えるのだ。だから、瞑想の内側には無限の平安があるのだ。

どちらの経験の方が好きだなどと、えり好みしてはいけない。神<スープリーム>〉があなたの中であなたを通して集中したい時には集中になるし、あなたの中であなたを通して瞑想したい時には、瞑想が起こるのだから。

Q: 瞑想の仕方を一度学んだら、集中の練習はもうしないのでしょうか?

Sri-Chinmoy-KamakuraA: 一般的なルールとして、スピリチュアルな生活を始めようとしているシーカーは、少なくとも何ヶ月かは集中から始めるがいい。集中を学ぶと、瞑想はやりやすくなる。しかし、瞑想が出来るようになっても、毎日の瞑想を始める前に数分間集中するのはよいことだ。集中すると云うことは、走る前にトラックの障害物を取り除くランナーのようなもので、トラック障害物がなければ、安全に速く走ることが出来る。そうなると、あなたは内なる特急列車のようになり、終点<ゴール>めがけてまっしぐらに進んでゆくことが出来る。

Q: 瞑想が終わったら、どうやって観想にいけばいいのですか?

A: 観想は修行を何年も経た、スピリチュアルな人生でもずっと上級者になってから出来るようになるものだ。観想とは内的なはしごの最上段ともいえる。スピリチュアルなアスピラントの中で、ごく限られた観想であっても、それが出来る者はとてもまれにしかいない。またそれでさえ、自分の思う通りに出来るものではないのだよ。

観想は神を悟る前に習得されるべきものだから、無視したり避けて通ることは出来ない。あなたは、まだ観想の必要はない。と云うのも、集中と瞑想がまだ完璧には出来ていないからだ。集中と瞑想の二つが完璧になったそのときは、観想もまた完璧に出来なくてはならない。そのときには、本当に〈至高なるもの〉のなかに入ってゆくことが出来る。

集中力がないのに、
どうやって外的な人生で成功することが出来るだろうか?
瞑想の平安がないのに、
どうやって内的な人生で前進することが出来るだろうか?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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観想の練習


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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観想練習

1      かくれんぼ<ハイドアンドシーク>

黄金の存在を想像し、その存在は今までこの世で見た最も美しい子供より限りなく美しいと思ってごらん。それが〈愛しのロード・スープリーム〉だ。あなたは神聖な愛し子で、黄金の存在は〈愛しの主なるスープリーム〉だ。

さあ、あなたと〈スープリーム〉はヒマラヤにある山の頂上か太平洋の一番底にいると想像してみるがいい。どちらでもかまわない、あなたが想像出来るほうでいい。想像出来たら、内的に微笑んでごらん。

何秒かしたら、あなた自身が〈愛しのスープリーム〉で、その黄金の存在が神聖な愛し手だと感じてみるのだ。これはちょうど、神聖なかくれんぼをしているようなもの。あなたが愛しの〈スープリーム〉になると、神聖な愛し子があなたを探す。そしてあなたが神聖な愛し子になると、愛しの〈スープリーム〉を探す。

この瞬間はあなたは最高の愛し子で、次の瞬間にはあなたが愛しのスープリームなのだ。最初は半眼でやること。上手くなったら、目を閉じてもかまわない。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

瞑想の練習


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想練習

1 ハートのバラ

まずあなたのハートの中で花を想像しなさい。今回はバラを思い描いてみることにする。このバラは完全に咲ききっていなく、まだつぼみのままだ。二~三分瞑想したら、その花びらが一枚一枚開いている様を想像しみること。一枚一枚開いていく花をハートの中で見、そして感じること。5分ほど経ったら、あなたのハートはなくなったと想ってみること。そして、「ハート」と云う名の花が自分の中にあるだけだと感じてみる。するとそこにはもはやハートはなく、バラの花があるだけだ。花はあなたのハートになり、そしてハートは花になってしまったのだ。

七~八分経ったら、あなたのからだ全体がこの〈花のハート〉に覆われたと感じごらん。身体はもうここにはなく、頭頂から足の先までバラの香りがするだろう?足を見れば、すぐにバラの香りがしてくる。膝を見てもバラの香りがするし、手を見ても、やはりバラの香りがする。体中いたるところに、バラの美しさ、香り、純粋さが広がったのだ。頭から足までバラの美しさ、香り、純粋さ、喜びそのものになったと思えたら、愛しの〈スープリーム〉の足もとに自分をたむける用意が出来たと云うことなのだよ。

2 意識の河

瞑想するとき、次の三つのことを思い浮かべてごらん。
⑴ 純粋さを自分全体に
⑵ 謙虚さを自分の全存在に
⑶ そして感謝の心を自分の手足すべてと細胞のすべてに
次に息を吸い、そして吐くとき、神聖な意識の河が、あなたの中を流れていると感じてみるのだ。だが決して無理強いしたり、力んではいけないよ。そしてこの神聖な意識が、〈源〉である〈スープリーム〉と常にワンネスを保ちながら流れて行くのを感じるがいい。

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3  神に捧げる

息を吸うとき、神の不滅の資質を吸い込んでいると感じ、次に息を吐くときは、自分の無明を神に捧げていると感じてごらん。

現在<いま>、あなたは無明が自分のものだと思っている。無明はとても悪いことだと言いながらも、その実それを手放したくない! しかし、「無知はわれわれの真の所有物ではない!」と云うことを知ることが必要だ。真の所有物とは〈平安・光明・至福〉なのだ。瞑想中、間違って所有しているものを神に捧げ、真に所有するものを神からいただくこと。「私の持っているもの、私のあるがままを取り去って下さい。そして貴方の持っているもの、貴方のあるがままを私に下さい」と神に頼むがいい。

あなたが持っているのはアスピレーションで、それは神聖になりたいと云う内的な叫びだ。あなたのあるがままは無明そのものだ。神にアスピレーションも無明も持っていってくれるよう頼むことだ。そして神の持っているもの、神のあるがまま、すなわち、〈無限・永遠・不滅〉を下さるように頼むことだ。

4 黄金の存在

神、つまりインナー・パイロットのハートの中にいると感じてみる。〈スープリーム〉を見たことはなくても、全身黄金に輝く人を想像するのだ。その存在はあなたの目の前にいて、あなたはそのハートの中か、膝の上か、あるいは足もとにいる。自分が十八歳だとか四十歳や六十歳だとは思ってはいけない。自分はまだたった一ヶ月の赤ん坊で、〈スープリーム〉のハートの中にすっぽり入っているか、膝に抱かれていると思うことだ。

5 空の広大さ

半眼にして、広大な空を思い浮かべてみる。最初は、目の前に空が広がっていると感じるがいい。その後は、自分は空と同じくらい広大だ、または広大な空そのものだと感じてみてごらん。

数分経ったら目を閉じて、自分のハートの中に空を見て、感じてみること。あなたは宇宙のハートで、あなたの内側には自分が瞑想し、一体化していた空が広がると感じてみること。あなたのスピリチュアル・ハートは空より限りなく広大なのだから、自分の中に空を抱くのはたやすいことだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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集中の練習


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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集中の練習

1 「点」

集中の力を高めたいのなら、この練習をしてみるといい。まず冷たい水で顔と目をよく洗ってから、壁の目の高さに黒い点を描いてみる。およそ25センチほど離れたところで点に向かって立ち、それに集中する。数分が経ってから、息を吸うときにその息が本当にその点から来ているのだと感じ、そして点もまた息を吸っていて、あなたから息をもらっているのだと感じて見なさい。そこではあなたと黒い点と云う二人がいるのだと想像するのだ。あなたの息は点から来て、点の息はあなたから来ているのだと。

十分経ってから、強力な集中が出来ていれば、あなたの魂はあなたを離れ、壁の点に入っていったと感じることだろう。こうなったら、あなたは自分の魂と会話をしていると感じて見ること。魂は神を悟るために魂の世界にあなたをいざなって行き、あなたは体現<マニフェステーション>のために、魂を肉体の世界へ連れてきているのだ。このようにしてとても簡単に集中力を高めることが出来る。しかしこの方法は繰返し練習することが必要だ。練習すれば簡単に出来ることはたくさんあるが、練習無くして結果は出ないものだ。

2 ハートと云う友

Picture-5-400x240-300x180指先やろうそくや他の物体に集中することが出来るように、ハートに集中することも出来る。目を閉じてもあるいは壁を見てもかまわない、その間ずっとハートをとても親しい友がいると思ってみなさい。するとこの思いは強い勢いを持ち始める。そしてあなたのすべての注意がそこに注がれたとき、あなたは通常の思考を超えて、集中の域に入ったと云うことになる。肉眼でスピリチュアル・ハートを見ることは出来ないが、注意の全てそこに向けることは出来る。すると徐々に集中の力がハートの中に入っていき、マインドの領域から完全に外へとあなたを連れていってくれるのだ。

あなたがまだ純粋さが豊富になくて、数えきれないほどの世俗的な欲望をハートにかかえているのなら、その場合、ハートに集中する前に純粋さを呼び起こさなければならない。純粋さとはハートの一番奥に、生きた聖シュラインなる社をもっている感覚のことだ。内的なシュラインの神聖な存在が感じられれば、そのときあなたは浄化される。そして、ハートでの集中がとてもうまく出来るようになるだろう。

3 生の鼓動

自分の鼓動に集中するのが好きなシーカーもいる。この練習をする場合、心脈がとぎれて死ぬのではないかと云う恐怖心をもたないこと。スピリチュアル・ライフで真の勇者になりたいのなら、鼓動に集中する練習を始めてもいい。これは終わりのない生に入ってゆくまたとない機会です。鼓動の音を一回聞くごとにすぐ、自分の無限な、不死の生を感じてみるがいい。

4 内面の花

pink-rose-400x240この練習には花が必要だ。半眼で、花全体を何秒か見てごらん。集中している間は、自分がこの花そのものだと感じること。また同時にあなたのハートの一番奥でこの花が大きく育っているのを感じること。自分自身が花で、自分のハートの中で育っているのだよ。

そして徐々に、その花の花びら一枚に集中してみる。あなたが選んだこの花びらは、あなたの現実の存在の種子なのだ。数分経ってから、また花全体に集中し、これが〈普遍の現実〉だと感じること。こうして、最初は花びら、つまり自分の現実の種子に集中し、次は〈普遍の現実〉である花全体に集中すると云うことを、代わる代わる行ってみるといい。この練習中には、マインドに何の考えも入れてはいけない。マインドを完全に落ち着かせ、静かに、そして平静にすることが大切だ。

しばらくして、目を閉じ、今まで集中していた花を、あなたのハートの内側に見るようにしてみること。ちょうど肉眼で見える花に集中したのと同じように、目を閉じたままで、ハートの中の花に集中してみなさい。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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真実になる ― 観想


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


真実になる ― 観想

sri-chinmoy-meditating-204x300集中は一点に注意を集める。瞑想は自分の意識を〈広大なもの〉まで拡大し、その意識の中へ入っていく。しかし観想では〈広大なもの〉自体になってゆき、その意識が他でもない自分のものとなる。観想は最も深い集中と、最も高いレベルの瞑想に同時にいることだ。瞑想で見え、感じた真実―観想ではその真実になっていき、完全にそれとひとつになる。神に集中しているときは、神を眼前に感じるかもしれないし、すぐとなりに感じるかも知れない。また瞑想しているときは、自分の内側に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉を感ぜずにはいられない。しかし観想では、自分自身が神であり、自分自身が〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉そのものだと云うことがわかる。

観想とは、意識的に無限で永遠な〈絶対的存在〉とひとつになることだ。観想において、〈創造者〉と創造物、愛する者と〈愛しい存在〉、そして知る者と知る対象はひとつになる。この瞬間われわれは神聖に愛する者であり、神が愛しの〈スープリーム〉となる。そして次の瞬間には役割が交代する。観想では〈創造者〉とひとつになり、宇宙全体を自分の内側に見ることが出来る。そのとき、自分自身の存在は最早なくなってしまう。何か、〈光明・平安・至福〉を力強く発しているものが見えるだけだ。

集中から得るメッセージ
それは冴えた頭でいると云うこと
瞑想から得るメッセージ
それは広大さ
観想から得るメッセージ
それは分かちようのない一体感

瞑想と観想

OLYMPUS DIGITAL CAMERAある特定の神聖な資質、たとえば〈光明・平安・至福〉に瞑想したり、抽象的に〈無限〉〈永遠〉〈不滅〉に瞑想したりすると、内側に特急列車が走っているのをいつも感じる。特急列車が動き続けている間に〈光明・平安・至福〉に瞑想しているのだ。マインドは〈無限〉の広大さの中で落ち着いて静かだが、それでもまだ動きがある。列車は止むことなくそのゴールに向かって走っている。われわれはゴールを心に描き、瞑想はそこへ連れて行ってくれる。

しかし、観想はちがう。観想では、宇宙全体、そしてもっとも遠いところにある〈ゴール〉が自分の奥深くにあると感じる。自分の中に宇宙全体とその無限の光明、平安、至福と真実を携えていると感じる。そのとき最早、思考も、形も、思いも存在しない。観想では全てが意識の流れ一つに合流してゆく。最高レベルの観想では自分が意識そのもの以外の何物でもないと感じる。

〈絶対的存在〉とひとつなのだ。しかし、最高レベルの瞑想では意識の中にダイナミックな動きが起こっている。内側の世界と外側の世界で何が起こっているのか全て分かっているが、それに影響されることはない。観想でも、瞑想と同じく、内側の世界と外側の世界で起こっていることに影響されることはない。しかしその違いは、自分の存在全体が宇宙と切っても切れないものなり、そしてその宇宙を自分の奥深くに携えていると云うことなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

無限を垣間見る:瞑想


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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無限を垣間見る:瞑想

集中では、何か一つのものに注意の焦点を合わせる。しかし、瞑想では、同時にたくさんのことを見、たくさんのことに対処し、たくさんのことを歓迎する力が自分の内深くにあるのを感じる。瞑想では、自分自身を拡げようとする。あたかも鳥が羽を広げていくように、自分たちの有限の意識を拡げて宇宙の意識に入っていこうとする。そこには恐れもねたみも疑いも存在せず、ただ〈喜び・平安・神聖〉な力があるだけだ。

瞑想とは、意識的に大きくなり、〈無限〉となっていくこと。瞑想の時、実際何をしているかと云うと、空の、落ち着いて静寂なマインドに入っていき、そして〈無限〉そのものから栄養を得て育んでもらっているのだ。瞑想しているとき、望むことはたった一つ。それは神とひとつになること。今私は英語で話していて、あなたはそれを理解することが出来る。英語がよくわかるからだ。同様に、瞑想がうまく出来れば神とひとつになることが出来る。瞑想と云うのは神と会話をするために使う言葉のことなのだ。

 

平安の海

sri-chinmoy-meditating-204x300瞑想は海の底へいくようなもので、そこでは全てが静かで平安に満たされている。水面にはおびただしい数の波が出ているかもしれないが、その下にある海は影響を受けることはない。海底の一番深いところにあるのは静けさだけだ。瞑想を始めたら、まず自分の内的存在、真の存在、つまり海の底にたどり着こうとする。そこにいれば、外の世界から波が押し寄せてきても影響されることはない。恐れ、疑い、心配など世俗的な動揺はみんなただ洗い流されてしまう。われわれの内側には確固とした平安があるからだ。そこでは考えにも惑わされることはない。なぜならマインドが全く平安、静寂、一体感になっているからだ。考えが魚のように、跳ねたり泳いだりしても、あとを残すことはない。自分にとって一番高いレベルの瞑想をする時、われわれは自分を海だと感じ、海の生き物には影響されることはない。または自分は空で飛んでゆく鳥に影響されることもない。マインドが空で、ハートが無限の海。これが瞑想だ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

集中の力


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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集中の力

集中とは内的に意識がはっきりと、冴えていると云うことだ。盗人はあなたのまわりにもそして中にもたくさん住んでいる。〈恐れ・疑い・心配・不安〉と云うのは、あなたの内的な安定や心の平安を盗もうとする内面にいる盗人のことだ。

しかし、集中の方法さえ知っていれば、このような力が自分の中に入ってくるのは難しい。猜疑心が思考<マインド>に入ってくれば、集中の力がそれをこなごなに砕いてしまう。また恐れが入ってくれば、集中の力が追い払ってしまう。現いま在のあなたがたは光の射さない、どんよりと暗い破壊的な考えの思う壺になっている。しかし、集中の力が増してくると、邪念の方がわれわれを恐れるようになるのだ。

集中と云うのは、われわれの中で機能しているマインドのダイナミックな意志の力だ。その力は光を受け入れ、闇を拒絶する。それはあたかもわれわれの中に住まう神聖な戦士のようなもの。神や真理を求める人生<アスピレーションライフ>の中で集中が果たしてくれる役割は想像の域を超えている。

集中はわれわれをこの地上での、まさに地獄そのもののような途絶えることのない心配と不安、そして拷問の苦しみから解放し、天国の永遠の続く悦びの内で生きてゆくことを容易くしてくれるのだ。

集中はゴールに到達する一番確実な方法といえる。そのゴールが神を悟ることであろうが、単に人の欲望を叶えることであろうが。真の求道者<アスピラント>は遅かれ早かれ集中の力を会得することになる。

〈神の恩寵〉、あるいはあなたの〈アスピレーション〉、あるいは継続的なトレーニングによって・・

 

魂の不屈の意思

Tenouchi集中〉それは何かに突入する弾丸、あるいは集中の対象を引き寄せる磁石のようなものだ。集中がおこなわれる時、どんな考えもマインドに入ってくることを許さない神聖なものでも神聖でないものでも、世俗的でも非世俗的なものでも、良くても悪くてもだ。

集中ではマインド全体を何かの〈物体〉かあるいは〈テーマ〉に注意を集中させる必要がある。もし花びら一枚に集中しているのなら、その花びら以外にはこの世には何も存在しないとマインドを集中すること。前も後ろも、上も中も見ず、ただ一点集中の力でその対象を射抜くこと。しかし攻撃的に何かに入っていくわけではない。この集中力は魂の不屈の意思、意志力からきているのだ。
何かの対象を使って集中を練習する場合には、その対象からすぐ喜びを得られるものを選ぶこと。あなたに師<マスター>がいるならマスターの写真からたちまち喜びを得られるはずだ。マスターがいなければ何かとても美しく、神聖で純粋な、例えば花のようなものを選ぶといい。

思考<マインド>の光を放つ一点集中の力で集中する

こころ<ハート>の広がり続ける広大さのなかで瞑想する

魂<ソウル>の満たしてゆく一体感で観想する

 

ハートから集中する

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蓮花/蓮華/ロータス

道<アスピラント>を求める人々からよく言われるのが、五分以上集中出来ないと云うものだ。彼らは五分経つと頭痛がしたり、頭に火が点いたようになってしまうと云う。何故だ?

それは、集中の力が知的なマインド、言い換えれば訓練されたマインドからきているからなのだ。マインド自身、ふらふらしてはいけないことくらいは分っている。それくらいはマインドにも分かっている。しかしマインドを正しく、光のあたったやり方で活用するには、魂の光が入ってくる必要がある。魂の光がマインドに入ってさえくれば、いとも簡単に何時間でも集中することが出来るようになる。その間は考えも疑いも恐れも浮かんでくることはない。あなたのマインドが魂の光で満ち溢れていれば、否ネガティブ定的な力は全く入ってくることが出来ないのだ。

集中しているとき、その集中の力はハートの中心からやってきて、第三の目へ向かって上昇していると感じること。ハートの中心には魂がいる。ここでは、魂がどんなものなのか、どんな形をしているのか、などと云うことは考える必要はない。ただ、神の代弁者、または限りない光明と歓喜そのものだと思ってみることだ。集中したら、魂の光がハートから出てきて第三の目を通り抜けると感じなさい。そうして それからこの光で、集中している物体に入り込み一体になり。集中の最終段階は集中している対象の中に隠れた究極の〈真実〉を見つけ出すことなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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矢と弓-集中は矢で瞑想は弓


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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弓道の練習をします

矢と弓

集中は矢で瞑想は弓

集中とは、何かテーマや物体にエネルギー全てを向け、その神秘のベールを剥がそうとすること。

瞑想は、限界ある意識からより高い意識へ行くこと。そこには静寂の広大さが君臨する。

集中はめがけていくその知識をとらえたい。瞑想は追求するその知識と一つになりたい。

集中は心の乱れを許さない、心の乱れとは集中の部隊本部に入って盗人だからだ。

だが瞑想はその盗人を中へと招き入れる。

何故?

もちろん現行犯で逮捕するためだ。

集中は散りじりにおなってしまった意識を我に返るよう促す司令官。

集中と絶対に強固な意志

この二つは分かちがたいだけでなく、お互いを必要とする神聖な戦士。

集中は敵に決闘の挑戦をし、戦う。瞑想は、その静かな微笑みで敵の攻撃の威力を小さくする。

集中は神に云う。

「父よ、あなたのところへ参ります。」

瞑想はこう云う。

「父よ、どうぞここへいらして下さい。」

道<アスピラント>を求める者には真摯な教師が二人いる:集中と瞑想だ。集中はいつも生徒に厳しい。

瞑想は時に厳しい。でもとにかく、二人とも生徒の前進に心から関心を抱いている。

 ~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

スピリチュアル・ハート——平安の住みか


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


幸せになりたいのかな?
だったら
マインドの力を過大評価せず
ハートの光を過小評価しないこと

ハートと魂

7-200x300ハートで瞑想すると云うことは、魂がいる場所で瞑想すると云うことだ。確かに、魂の光と意識は体全体に広がってはいるが、魂には大体いつもいる場所と云うのがあり、それがハートの中なのだ。光を受け取りたいのなら、魂から受け取る必要がある。それはハートの中にあるのだ。何が欲しくて、どこに行けばそれがあるのか分かっているなら、そこへ行くのは当然のこと。さもなければまるで、金物屋に夕飯のおかずを買いに行くようなものだ。(笑)

マインドから得られるものとハートから得られるものには、比べものにならないくらい差がある。マインドには限界があり、ハートには限界はないからだ。あなたの内側奥深くには無限の平安<ピース>・光明<ライト>・至福< ブリス>〉がある。限られた量のものを手に入れるのはたやすいことだ。マインドでの瞑想がそれにあたる。しかしハートで瞑想すれば、もっと限りなく、多くののものを得ることが出来る。仮にあなたが二つの会社で働くとする。一方では二百ドル稼ぎ、もう一方では五百ドルを稼ぐことが出来る。ちょっと考えれば、一方の会社で時間を無駄にすることスピリチュアル・ハートはないだろう?

マインドに完全に頼っている限り、まずあなたは瞑想に失望してしまうことは見に見えている。マインドはすべてを複雑にし、あなたを混乱させてしまうからだ。普通の人は複雑なことが智恵だと思っているが、スピリチュアルな人は神がとてもシンプルだと云うことを知っている。複雑さではなく、シンプルさの中に本当の真実はあるものだ。

そうだからと云って、マインドがいつも悪者だと言っているわけではない。いつも悪者だとは限らないのだが、マインドには限界がある。マインドから得られるものは、せいぜいよくてインスピレーションなのだが、それ自体限界がある。真のアスピレーションを得るためには、ハートへ行かなければならない。アスピレーションはハートからやって来る。そこは魂の輝きがいつもあるところだからだ。ハートで瞑想すればアスピレーションを得るだけでなく、魂の無限の〈平安・光明・至福〉を得ることになり、あなたのアスピレーションは初めて満たされる。

 

Q: 瞑想中にスピリチュアル・ハートにたどり着くにはどうしたらよいのですか?

September-13-1976g-_0-100x150A: スピリチュアル・ハートは胸部の真ん中にある。あなたが強力なアスピレーションがあるときには、スピリチュアル・ハートを感じることが出来るだろう。またそれは第三の目で見ることも出来る。スピリチュアル・ハートで瞑想するのが難しければ、心臓そのものに集中してもよい。しかし数ヶ月または一年ほど経つうちに、肉体の心臓の中には神聖な〈こハートころ〉があり、そして神聖なハートの中には魂<ソウル>があるのを感じることが出来るはずだ。これが感じられたら、スピリチュアル・ハートで瞑想を始めることが出来る。

スピリチュアル・ハートにたどり着くには、自分にはマインドがない、腕もない、足もない、ハートしかないと感じなくてはいけない。それから、自分にはハートがあるのではなく、自分がハートそのものなのだと感じることが必要だ。自分がハート以外の何ものでもないのだと感じられたら、瞑想中に簡単にスピリチュアル・ハートにたどり着クことが出来る。

 

Q: マインドを離れ、ハートに入ってゆくのがとても難しいのですが、どうしたらいいでしょうか?

ckg-jk-pinkA: あなたのマインドが持つもの全てを、何も考えないでハートの中に投げ込むがいい。「マインドを捨ててしまったら、私の存在はどうなる?バカになってしまう?」と思うかも知れないが、いいかい? 人と会話するのに使っているマインド、情報を得るのに使っているマインド、世の中の普通の物事をするのに使っているあなたのマインドは、」神を悟るためにあなたを、わずか一ミリでさえも前進させることはないのだ。そのマインドは足が不自由で、盲目で、耳も聞こえないのだよ。

足の裏から頭頂まで、あなたの存在全てが魂なのだと感じること。魂をこめてこう繰り返すがいい。「私は魂だ。私は魂そものなのだ。」と魂をこめて五分間こう唱えたら、肉体のマインドからの抵抗はなくなり、魂だけがある状態が訪れる。魂の中で生き、魂の光を前面にもってきたら、この光はマインドをより高い領域へもっていくか、平安を上からもってくることが出来る。これにより、これまでのあなたが知っている肉体のマインドは変革される。 あなたの問題は解決されるのだよ。

 

Q: 瞑想していると、ときどきハートを感じているのかマインドで経験しているこ
となのか、区別出来ないときがあるのですが?

pixintrogrpbirdA: ハートを感じているのであれば、純粋な満足感がある。それがマインドなら、満足感はあるものの、疑いもまたすぐにやってくる。今したばかりの経験が他の考えに攻撃されてしまう。「自分は本当にだめだ。本当に不純で、本当に無知だ。今朝うそをついてしまったし、昨日もやっぱり誘惑に負けてしまった。だからこんな満たされた気持ちになれるはずはない。」こんな考えが浮かんでくるのは、これがマインドでの経験なのだと分かる。

マインドで何か経験すると、一時的にとても幸せな気持ちになるかもしれない。しかし喜びは残らない。なぜならマインドが見たり、感じたり、悟ったこととは一体感を確立出来ないからだ。しかしハートで経験すれば、すぐにその経験と一体感を感じ、喜びはいつまでも継続する。

マインドを使って花を見ると、観賞し、賞賛する。しかし、ハートでその花を見ると、たちまち、自分のハートがその花の中にあると感じるか、その花が自分のハートの中にあると感じられる。だから何か経験を得て、もしその経験と一つになるなら、それはハートからきていることが分かる。一方、その経験が何か自分の外側で達成されたことだと感じるなら、これはマインドから来ているものなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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質問:瞑想中に創造的な考えが浮かんだら…期待するの


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


マインドは質問の洪水だ
それに答えられる師はただ一人しかいない
一体それは誰だ?
それこそは静寂を愛する
あなたのハートなのだ

Q: 瞑想中に創造的な考えが浮かんだら、それを追っていった方がいいですか?それともハートの中で、ただそれを感じようとした方がよいのでしょうか?

pink-rose-400x240A: 前向きな考えが浮かんだら、それはただちに神<スープリーム>からの祝福だと思って間違いない。しかし、それがどんな種類のインスピレーションなのかわかっていないといけない。明るく照らされるようなインスピレーションであるなら、また何かとてもよいことをするための、創造的なインスピレーションであるなら、追っていくといい。創造的な考え、より高いゴールを示してくれる考えには何でも従った方がいいだろう。あるインスピレーションが、あなたの人生に何か新しいものをもたらしてくれ、あなたの人生を変革してくれるのであれば、そのときには追いかけていくべきだ。

あなたがたはインスピレーションはマインドの中だけに存在し、アスピレーションはハートの中だけに存在すると感じているかもしれないが、アスピレーションがマインドにあることもあれば、インスピレーションがハートにあることもある。インスピレーションがアスピレーションにやってくることもあり、その反対もありえる。しかし、そう云うインスピレーションは、とても高い種類のものでなくてはならない。そうでなければそれは全く瞑想の助けにはならない。瞑想中に、おいしいクッキーを焼こうと云うインスピレーションが湧いたとしても、これは時間の無駄でしかない(笑)

明るく輝くインスピレーションなら、「その創造的なアイデアがまさに自分自身の進歩なのだ」と受け止めるがいい。なぜならその創造的なアイデアは、この物質世界で体現されたいと望む別世界から来た創造物なのだから・・・・ だからその場合には瞑想の後でその考えを書き留めて置くほうがいい。そしてそれを後でさらに深めてゆくことになる。

 

Q: 瞑想するとき、何か特定のものを期待するのはいけないことなのですか?

Liliya-300x218A: 瞑想中はただあなたの内的、外的な存在をすべて神<スープリーム>〉に投げ出すようにすること。何も考える必要はない。ただ、光明<ライト>・平安<ピース>・至福<ブリス>・力<パワー>の海に自分を投げ入れるのだ。

しかし、何かある特定の神聖な資質や結果を期待してはいけない。それは自分のことも、神<ゴッド>のことも縛っていることになってしまうからだ。なぜなら、人の期待は無限ではなく、非常に限界があるからだ。期待するとただちにマインドが働き、受容力がとても限られてくる。でも何も期待しなければ、受容力の問題は神<ゴッド>の問題となる。そのとき神は確実に、あなたに全てを極限なく与え、と同時にあなたの中に与えるものを受け取るのに十分な受容力を作り上げてくれるのだ。

最も高いレベルの瞑想とは、静寂<サイレンス>の中で一つの目的のためになされるもの。――それは、神に神のやり方で喜んでもらうことなのだ。

瞑想する時、自分は神のやり方で神に喜んでもらっている、と感じられるなら、それが最善の瞑想だといえる。さもなければ、喜びを得るために瞑想を始めたら、喜びを得るかも知れないが、無限の喜びと云うのを得ることは出来ない。なぜなら、あなたの〈永遠なる愛しい存在〉である神<ゴッド>を、神のやり方で満足させてはいないからなのだ。

「御心のままに。」と救世主イエスキリストが言ったことは、まさに最高の高みにある真実なのだよ。瞑想する前に、瞑想の結果を源<ソース>に捧げ、「どうか貴方の完璧な道具にしてください。貴方が望むように、私の中で、私を通して御自分を満たすことが出来ますように。」 と言えれば、これはもう間違いなく、最も高いレベルの瞑想なのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

頭を空っぽにする


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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時に静寂の中に身をおくことが必要だ
と云うのも
それこそが唯一の道なのだ
もう少しよく知り
もう少し賢く考え
もう少し完璧になり
もう少し早く、神を自分のものとするために

静かなマインド

思考<マインド>を静めるどの瞑想の道を選ぼうと、まず最も大切なことは、思考<マインド>を静かに落ち着かせることだ。あなたの中でいつも思考が忙しく動き回り、容赦ない諸々の考えの餌食になっているようなら、まず進歩はない。思考は常に静かに落ち着いていることが肝要なのだ。そうすれば、天から
光明が下りてくるのが分るようになる。意識して光明に気づき、受け入れることであなたは非常に深い瞑想に入ることが出来る。そしてあなたの人生は浄化され、変革され、明るく輝いてくる。

しかし、どうやれば思考を静かに落ち着かせることが出来る?

思考はそれ自体力をもっている。そして現在<いま>のあなたの中では、この力はあなたの瞑想したいと云う熱意や決意よりも強いのだ。しかしこハートころの助けを借りることが出来れば、徐々に思考をコントロール出来るようになる。こころは常に、光明とパワーで満ちあふれた魂ソウル
から同じように助けをもらっている。

sri-chinmoy-manos-corazon頭<マインド>を空っぽにする

あなたがたの中には頭<マインド>が空っぽになってしまうと、頭がおかしくなって気が狂ったように振舞うのではないかと思う人がいるかもしれないが、そんなことはない! 十分か十五分でも思<マインド>考を静め落ち着かせることが出来れば、あなたの内側に新しい世界が開けてくる。そしてこれがあなたの霊性が進歩してゆく上でのあらゆる元となる。現在<いま>のあなたは、まだ思<マインド>考をほんの数秒か、せいぜい一分ぐらいなら静めることが出来ないかも知れない。でもその静けさ、落ち着き、平安を三十分、いや十五分でも保つことが出来るなら、その平安の中に、途方もない神聖な光明とパワーをもった、新しい世界が育ってゆくことはまちがいない。

頭に何の考えも浮かんでこないとき、困ったことになったとは思ってはいけないよ。それどころか、何か神聖なものが、あなたの純粋で真実を熱望している部分で育っているのだと感じること。だがすぐに結果を期待してはいけない。農夫は種をまき、そして待つ。すぐ作物が実ることを彼は期待しているだろうか? 芽がでるまでは数週間か数ヶ月は必要なことくらい子供でも知っている。これと同じように、あなたのマインドは、豊かな土地に例えることが出来る。静寂と平穏と云う種をまき、辛抱強く耕して行けば、遅かれ早かれ、必ず光明と云う大豊作を収穫出来ることなる。

瞑想に思考<マインド>は必要ない。思考と瞑想は全く違うものだ。瞑想するときは全く思考はなくなってしまう。瞑想の目的は全ての考えから自分を解放することなのだ。考えと云うのはちょうど黒板についた点のようなもので、良きにせよ悪しきにせよそこにある。考えが全くなくなってしまった時、初めて、至高の真実になっていくことが出来るのだ。

非常に深い瞑想でも、考えが浮かんでくることはあるが、最も高く深いレベルの瞑想では、そんなことはおこりえない。至高の瞑想では、ただそこに光明があるだけなのだ。

ゆっくりと、しかも確実に、落ち着きのない思考を静めることが出来たなら、

神は、喜んで

ただちにその計り知れなく大きなハートを開いてくれる。

DSC_3891思考<マインド>を超えて

光明の中ではヴィジョンと実<リアリティ>在は一つだ。あなたはそこに座り、私はここに立っている。私をヴィジョン、あなたを現実とする。あなたを知りたかったら、私はあなたを見、あなたの中に入っていかねばならない。しかし至高の瞑想では、現実とヴィジョンは一つなのだ。

あなたが在るところに私も在る。そして私が在るところにはあなたが在る。
われわれは一つなのだ。だから、至高の瞑想では考えはいらない。
至高の瞑想においては知る者と知るべき物は一つになるのだ。

静かに内側を見つめて考える、内省と呼ばれるものでさえ、規律をもって行われる瞑想の広大さとは比べものにならない。考え始めた瞬間に、限界や束縛と戯れることになってしまう。現在<いま>、どんなに甘美で美味な考えであろうと、それは最終的には痛みを伴い、破壊的なものとなってしまう。なぜなら、それはわれわれを制限し、縛るものだからだ。思<マインド>考に現実は存在しない。なぜならそれは毎秒毎秒世界を作り上げては、次の瞬間にそれを壊しているからだ。思考にもそれなりの役割はある、しかしスピリチュアル・ライフにおいては、思考を遥かに超えた永遠の平安、永遠の叡知、永遠の光明があるところに行く必要がある。アスピレーションと瞑想に助けられて思考を超えたその時、初めて神の〈実リアリティ在〉と神の〈ヴィジョン〉を同時に見、楽しむことが出来る。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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質問:ベジタリアン – 菜食主義


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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ベジタリアン – 60+才

Q: スピリチュアルな生活を送るのには、ベジタリアンでないといけないのですか?

A: ベジタリアンでいることは、スピリチュアルな生活においてとても意味のあることだ。純粋さ<ピュアリティ>と云うのは神を求める者<アスピラント>にとって最も重要だ。この純粋さを身体、生バイタル 命エネルギー、そして思考<マインド>に作り上げなくてはいけない。肉を食べると、動物の攻撃的な意識がわれわれの中に入ってくることになる。神経はかき乱され、落ち着きがなくなり、これが瞑想の邪魔になるのだ。求道者<シーカー>が肉を断たないと、一般的に言って微細な経験を得たり、微細なヴィジョンを見たりすることはまずない。

かつて先に進むために、動物意識が必要な時があった。動物は元来攻撃的なものだが、同時にダイナミックに前に押し進める力もその意識の中にはある。動物の資質がなかったなら、木のように自動力のないままでいたか、成長も動きもない石の意識のままでいたことだろう。ただ残念なことには、動物の意識には光明があたっていない、破壊的な資質が多く含まれている。あなた方は既にスピリチュアルな生活に入ったのだから、人生における動物意識の役割はもう終わってしまった。動物の意識から人間の意識に入り、今そこから神聖な意識へ入っていこうとしているのだ。

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玉子と乳製品は大丈夫ですよ!

と乳製品は大丈夫ですよ!

と乳製品は大丈夫ですよ!

果物と野菜の穏やかな資質は、内面と外面の生活において優しさ、柔らかさ、シンプルさ、純粋さを育むのに役立つ。ベジタリアンであれば、自分の内的存在<インナービーイング>がより強固になる助けになる。内的には祈り、瞑想をする。外的には〈母なる地球〉が与える食べ物がわれわれを助け、エネルギーだけでなく、アスピレーションも与えてくれるのだ。

肉が強さをくれるのだと感じている人たちは大勢いるが、一度自分の奥深くに行けば、肉を信じるその考えが強さをくれているのだと云うことがわかるはずだ。その考え方を変え、肉ではなくて、自分の体にみなぎるスピリチュアルなエネルギーが強さをくれているのだと思うことも出来る。このエネルギーは適切な栄養と同時に、瞑想から得ることが出来る。アスピレーションと瞑想からもらう強さは、肉からもらう強さより限りなくパワフルなものなのだ。

ベジタリアンの方がスピリチュアルな生活における進歩が早い、と云う結論に達したスピリチュアルな求道者<シーカー>は大勢いるが、ベジタリアンであると同時に祈り、瞑想しなくてはいけない。アスピレーションがあれば、ベジタリアンの食生活がより大きな助けとなる。それは身体の純粋さが内的アスピレーションを、もっと激しくもっと魂のこもったものにしてくれるからだ。しかし一方で必ずしもベジタリアンでないことが、スピリチュアルな前進が出来ないとか、神を悟ることが出来ないと云うことではない。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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目を開けているか、閉じるか?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


瞑想は神聖な贈り物だ瞑想はこの世での人生をシンプルにし、精スピリチュアルライフ神生活に活力を与えてくれる瞑想によって人生は、自然でのびのびしたものになるとにかく自然でのびのびし自分自身の神聖さを一息ごとに意識しないではいられなくなる

SriChinmoy34-300x204目を開けているか、閉じるか?

目を開けたまま瞑想したほうがいいのか、と聞かれることが多い。目をつぶって瞑想をすると、殆どの人たちはが眠ってしまう。五分ほどは瞑想をしても、後の十五分は眠りの世界に入ってしまうのだ。ダイナミックなエネルギーを得るのではなく、だるさ・自己満足・そしてある種の安らかで甘美な感覚を覚えるだけだ。

瞑想中に目をつぶり眠りの世界に入ると、様々な空想を楽しむことが出来る。あなたは持ち前の豊かな想像力で、より高い世界に入っていくのだと感じるかも知れない。実際、すばらしい瞑想をしているのだと思い込む方法はたくさんある。

だから、目は半分開き、半分閉じた状態でいるのが一番いい。このようにして、あなたは木の根元と最も高いこずえにある枝に同時にいることが出来る。目を半分開けている自分は、〈母なる地球〉を象徴する根元にいる。一方目を半分閉じている自分がいるのは一番高いところにある枝、ヴィジョンの世界、または〈天国〉と言える。あなたの意識は最高の高みにいると同時にこの地球上にもいて、世界を変革しようとしているのだ。

半眼の状態で瞑想するとき、これを「獅子の瞑想」と云う。こころの奥深くに行っている間も意識して、物質世界にも無意識の世界にも注意を払っていることが出来る。物質界の騒音と混乱、そして無意識界の眠りがあなたを呼んでいる。しかしあなたはそのどちらも乗り越えているところなのだ。「OK、僕の意識ははっきりしている。そちらの世界へ連れて行くことは出来ないんだよ。」とあなたは言っているのだ。目が半開きなので、眠りに落ちることはない。こうして無意識の世界に挑んでいるのだ。同時に周りで何が起こっているか見えているから物質界のコントロールも保つことが出来る。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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瞑想を始める準備-基本をマスターする


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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準備がないと何も始まらない
何も始まらないと前進もない
前進がないとゴールもない
そして
ゴールがなければ
満足はない

瞑想を始める準備

家で瞑想する際には、瞑想のためだけに使う神聖な場所をつくり、 そこを完璧に純粋で清めること。そこに、自分のスピリチュアル・マスター、または仏陀やイエス・キリスト、あるいは自分が師と仰ぐ神聖な存在の写真や絵を飾るといい。このような場所をシュラインと云う。

altardemeditacaosrichinmoy瞑想を始める前に、シャワーを浴びるか風呂に入って身をきれいにしておくがいい。これはあなたの意識を浄化する助けになるからだ。シャワーを浴びることが出来なければ、少なくとも顔は洗うこと。そして、清潔で軽い服を着るのがいい。部屋に香を焚き、シュラインには花を生けておきなさい。香の香りがもたらすインスピレーションと浄化作用はほんのわずかかもしれない。しかしこのわずかなものがあなたの内面の宝物となる。瞑想中に目の前に花を置く必要はないと云う人たちもいる。「花はわれわれの内面にある。千枚の花びらを持つ蓮の花は私たちの中に咲いているのだ。」と云うのだ。しかしシュラインにある実物の花は、あなたの内側に咲く花を思い起こさせてくれる。その色、香り、純粋な意識があなたに霊感<インスピレーション>をもたらす。そしてこの霊
感<インスピレーション>から、心<アスピレーション>から神を求める気持ちが生まれてくるのだ。

瞑想中にろうそくを使うのも同じ理由だ。ろうそくの炎自体にはアスピレーションなどはない。しかしその燃えるな炎を見ることで、自分の内的存在のアスピレーションの炎が高く、何よりも高く昇ってゆくのを感じることが出来る。もし神を悟る直前か、もう神を悟ってしまっている者にとっては、このような外的なことには何の価値もない。しかし悟りへの道のりがまだ遥かなものと分かっていれば、花やろうそくが確実に、あなたのアスピレーションを高めてくれるのだ。
毎日の瞑想をするときは、必ず一人で行いなさい。但し、同じスピリチュアル・マスターを持つ夫婦の場合は例外だ。この場合、夫と妻は一緒に瞑想してもよい。それ以外は、毎日の個人の瞑想をほかの人とするのは勧めない。グループでする瞑想も大切だが、個人の日々の瞑想は、自分のシュラインに向かって、一人で行ったほうがよい。

瞑想は神聖な贈り物だ瞑想はこの世での人生をシンプルにし、精スピリチュアルライフ神生活に活力を与えてくれる瞑想によって人生は、自然でのびのびしたものになるとにかく自然でのびのびし自分自身の神聖さを一息ごとに意識しないではいられなくなる

Sri Chinmoy performing a peace concert at the Kamakura Diabatsu姿勢が大切

瞑想するときは、背筋をまっすぐに伸ばし、身体をリラックスさせることが大切だ。身体が固いと、瞑想の間に体を流れる、神聖で満ち足りたものを受けとることが出来ない。また座り心地が悪いと云うのも良くない。瞑想に入ると、内的存在<インナーパイロット>があなたを自然な心地よい姿勢してくれることだろう。しかしその姿勢を保つかどうかはあなた次第なのだ。蓮華坐<パドマアーサナ>のよいところは、脊椎をまっすぐに伸ばしていられることだ。しかしこの姿勢はヨーガや座禅をやったことのない者にとってはとてもむずかしい。きちんとした瞑想をするために、必ずこの蓮華坐<パドマアーサナ>を習得しなければならないと云うことではない。椅子に座ってもよい瞑想は出来るしそうする者も大勢いる。

体操や一定の姿勢を作る動きをする人たちもいる。これはハタ・ヨーガとよばれていて、身体をリラックスさせ、少しの間心の平安をもたらしてくれる。もしあなたが落ち着きが全くなく、一秒もじっとしていられないようなら、このハタ・ヨーガは確実に助けになってくれることだろう。しかしハタ・ヨーガが瞑想を行う上で、絶対に必要かと云うと全くそうではない。高みを目ざす求道者<アスピラント>には、ハタ・ヨーガを行わなくても、心を落ち着け静めることが出来る
人は大勢いる。

横になって瞑想するのはやらないほうがよい。これは何年か瞑想の経験がある者でも同じだ。横になって瞑想しようとすると、眠りの世界に入るか、うとうととまどろみの世界に入ってしうからだ。さらに、横になっていると、座っている時ほど呼吸がきちんと出来なくなってしまう。それは無意識で呼吸をしているからだ。意識的に呼吸をコントロールすることは瞑想においてとても大切なことだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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質問:もっと人生に喜びが欲しいのです


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


魂のこもったこころが至高の真実を発見した。
神に瞑想するのは義務ではなく名誉なことなのだ。

bali40Q: もっと人生に喜びが欲しいのです。けれどもだからといって、そのために瞑想に飛び込むだけの自信がありません。

A: 人生に喜びを感じていない、しかし喜びは欲しいと感じている。それはつまり、あなたがスピリチュアルなことに飢えていると云うことだ。スピリチュアルに飢えているなら、スピリチュアルな食べ物を食べることだ。

飢えていなければ食べないだろう?

あなたはこれまで十五~二十年の間、スピリチュアルな生活を誠実に、あるいはは激しく求めてくることはなかった。あまりに長い間瞑想もしてこなかったから、スピリチュアルな海に急に飛び込んでも泳ぐことは出来ない。自分の性質をすぐに変えることは出来ないから、ゆっくりと一定のペースで、少しづつやるようにするといい。最初は水の中で動き回り、徐々に泳ぎ方を習うこと。そのうちうまく泳げる時がやってくる。しかしあなたにはもう内的に飢えがあるのだから、泳ぎ始める準備が出来ていると云うことだよ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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集中-基本のテクニック


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


基本のテクニック

ビギナーは、集中<コンセントレーション>から始めるのが一番良い。集中が出来ていないと、思考<マインド>を落ち着かせ静めようとした途端、数え切れないほどの欲しくもない考えが浮かん出来て、たった一秒でも瞑想することなど出来はしない。集中が出来れば、瞑想の妨げになる考えにその時点で対抗することが出来る。だから初めのうちは、ただ集中の練習を何分か行うこと。それを何週間か、何ヶ月かやってから、瞑想<メディテーション>をやるのがいい。

Patanga-pequeno瞑想を始めるにあたっては、いつも自分は子供なのだと思うこと。子供のときは思考<マインド>が発達していないが、十二歳か十三歳になると、思考が知性のレベルで働き始める。けれどそれ以前の子供は、こころ<ハート>だけの存在だ。子供は自分は何も知らないと思っている。瞑想やスピリチュアル・ライフについての思い込みはまだなく、真っ白な状態から学びたいのだ。

まず自分は子供なのだと感じたら、次に花がたくさん咲いている庭にいると想像するといい。子供は庭で何時間でも遊ぶことが出来る。あの花の側へいったり、この花のところにやって来たり、なかなか庭から出ようとしない。一つ一つの花の美しさと香りが、喜びを与えているからだ。だからあなたの内側には庭があり、そこに好きなだけいられるのだと感じてみることだ。こうやってハートでおこなう瞑想を身につけることが出来る。

lotus-100x150ハートに留まることが出来たら、内側からほとばしりでる叫びを感じ始めるだろう。この内側からの叫び、つまりアスピレーションが瞑想の秘訣なのだ。大人が泣き叫ぶとき、それは必ずしも誠実なものではないが、子供が泣き叫ぶとき、たとえ飴玉一個がほしくて泣いているのだとしても、それはとても誠実なものなのだ。その時飴玉は、この子供にとっては世界のすべてなのだ。飴玉の代わりに百ドルあげたとしても、子供は決して満足しない。ただ飴玉がほしいのだから。子供が泣けば、父親か母親がすぐ飛んでくるように、あなたが心の奥深くから、平安<ピース>・光明<ライト>・真実<トゥルース>を求めて叫び、ほかの何ものもあなたを満たすことが出来ないならば、永遠の父・永遠の母である神は必ずやってきて、助けてくれる。

だから、いつも自分は子供のように無力なのだと思ってみるがいい。自分では何も出来ないと感じたら、すぐに、誰かが助けに来てくれる。子供が道に迷って泣き出したら、親切な人がやって来て、家がどこにあるか教えてくれる。あなたも道に迷ったのだと思ってみるがいい。それは丁度ひどい嵐のようなものだ。〈疑い・恐れ・不安・心配・自信のなさ〉といった神聖でない力がふりかかってくる。しかし心の底から泣き叫べば誰かがやって来て、どうやればあなたの家であるこころ<ハート>に帰れるか教えてくれるだろう。その〈誰か〉とは誰だろう?それが神<スープリーム>、あなたの内なる導き手<インナーパイロット>なのだ。

朝早く
あなたの友、真の友、唯一の友である神を招き入れるがいい
その日一日を一緒に歩いてくれるように

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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瞑想-まず始めに


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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 スピリチュアルな観点から言えば
神の探求者はすべて初<ビギナー>心者だ
止むことなく常に前進したいと思った瞬間に
永遠のビギナーとなる

まず始めに
スピリチュアルな観点から言えば、神の探求者はすべて初<ビギナー>心者だ。ビギナーとは、絶えず、もっと神聖なもの、もっと光り輝くもの、もっと満ち足りたものになっていきたい、と云う内的な渇望を持った人のこと。止むことなく常に前進したい、自分自身を超え、絶えず超越し続ける〈彼方〉に入っていきたいと思った瞬間から、あなたは永遠のビギナーとなる。

もしあなたがまったくのビギナーなら、スピリチュアルな本かあるいは聖典を何冊か読むことから始めてみるのがいい。そこでインスピレーションを得ることが出来るからだ。自分の信頼出来る霊性の師<スピリチュアルマスター>の本を読みなさい。最高の意識の高みに到達した師<マスター>は確かに存在する。
この人たちが書いた本を読めば、必ずインスピレーションがもらえるはずだ。反対に、大学教授や学者、まだ光明を受けていない成アスピラント 長を熱望している人などが書いた本は、勧めない。〈真実〉を悟った者だけが〈真実〉を示す力があるからだ。さもなければ、盲目の人が盲目の人を導いているようなものだ。

5またすでに瞑想をある程度経験してきた人たちと交流するのもいい。彼らはあなたを教える立場にはないかもしれないが、インスピレーションをもらうことは出来る。その人たちが瞑想している間ただ脇に座っているだけでも、あなたの内面の存在は、無意識のうちに瞑想する力を得ることになる。別に何かを盗っているわけではない。意識的にはわからなくても、内面の存在がその人たちに助けてもらっていると云うことだ。

始めは瞑想と云うことも考えなくていい。ただ、一日のうち決まった時間を設け、自分を落ち着かせ、静かにする時間を持つこと。そしてこの時間は他の誰のものでもなく、自分自身の内面の存在のためのものなのだと思ってみなさい。規則的に行うことが最も大切だ。決まった時間に一定の練<プラクティス>習をする必要があるのだ。

毎日学ぶべきことはたった一つ
どうしたら心から幸せでいられるか、と云うこと

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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質問:どうやって瞑想するのですか?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


Sri Chinmoy performing a peace concert at the Kamakura Diabatsu Q: どうやって瞑想するのですか?
A:  瞑想には二つの方法がある。一つは思考<マインド>を静かにさせるやり方だ。ふつうの人は、思考を静めてしまったら馬鹿になってしまうのではないかと思っている。思考がなくなることで、すべてが失われてしまうのではないかと思っているのだ。しかしスピリチュアルな見地ではこの考えは間違っている。スピリチュアル・ライフでは、思考を静かにさせると、そこに何か新しい創造、新しい神への約束が芽生えるのがわかる。今はまだ、神との約束を果たしてはいない。まだ、自分の存在を完全に神に捧げてはいるわけではない。しかし思考を静めることが出来れば、神を喜ばせ、満たすことが出来るようになる。もう一つの方法は、こころ<ハート>を空っぽにすること。今の時点では、ハートは純粋でない生バイタル 命エネルギーに包まれている。その純粋でない生命エネルギーによって引き起こされた、感情的な混乱と問題でいっぱいだ。ハートは器にしか過ぎない。今、この器は、われわれを縛り、制限する神聖ではないもので満たされている。が、もしこのハートの器を空にすることが出来れば、誰かがやってきて、神聖な〈平安<ピース>・光明<ライト>・歓び<ディライト>で満たしてくれる。そしてわれわれはくびきから解放され自由になる。ハートの中の無<イグノランス>明を取り去って空っぽにすると、今度は神の〈叡智の光〉で満たされることになる。

ckg-jk-pinkQ: 瞑想が最も高いところにある真実なのですか?
A: ビギナーにとっては、瞑想が最も高いところにある真実だといえるだろう。しかし上級者になると、瞑想は至高の真実へ導いてくれるものにすぎないことが判る。もし今まで無明の世界で生きてきて、わずか一分でさえ祈ったり瞑想したりしたことがないのであれば、当然その人にとっては瞑想が、自分の意識が到達しうる最も高いところにある真実となる。しかし何年か瞑想を続けると、瞑想それ自体は至高の真実ではないのだと判る。至高の真実と云うのは、瞑想の道を歩みながら実現し、あなたがなってい,,,,,,,ものなのだ。

Q: スピリチュアルに進化し、悟りの境地に達したら、瞑想の焦点は変わりますか?
A: 悟りの境地に達した後は、神の探求者<シーカー>がするような瞑想はもう必要ない。悟りの境地へ行くとき、つまり神<スープリーム>と一つになるとき、その人は常に瞑想していることになるからだ。神の探求者が〈神〉を悟った後に瞑想するのは、何か達成しようとか、何かを越えようとかするためではない。人類のために平<ピース>安・光<ライト>明・至<ブリス>福を下ろしてくるため、または他の人たちの意識を目覚めさせるために瞑想をするのだよ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

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なぜ瞑想するのだろうか?


~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


front_lotusそれは、この世界がわれわれを満たすことが出来ないから・・

日常生活で、いわゆる平安<ピース>と呼ばれているものは、どこまでも続く不安・心配・失望 の果てにおとずれる、わずかひとときの平穏にすぎない。われわれは常に、嫉妬・恐れ・猜疑心・心配・不安・絶望といった否定的<ネガティブ>な力に囲まれ、そのなすがままになっている。この否定的<ネガティブ>な力は、言わば猿のようなものだ。「猿がかみつくのに疲れて、つかの間の休息をとっているその間こそが平穏でいられる」と云うわけだ。しかしこれは真の平安とは全く違う。次の瞬間にはまた猿に攻撃されてしまうのだから・・・

ずっと続く平安、神聖な平安は瞑想を通して初めて手に入れることが出来る。朝、こころをこめて瞑想し、一分でも平安を受け取ったならば、その平安はその日一日あなたを満たしてくれる。そして最もレベルの高い瞑想をすると、本当にゆるぎない平安<ピース>・光明<ライト>・歓び<ディライト>を得ることが出来る。

瞑想が必要なのは、人が光明<ライト>の中で成長し、自分自身を満たすためだ。あなたにこう云う強い真アスピレーション実を希求する思いと心の渇きがあるのなら、瞑想をする以外に道はない。もしあなたが、現いま在持っているものと現在の自分に満足しているのであれば、瞑想をする必要はない。瞑想を始めるのは、内インナーハンガー的な飢えがあるからなのだ。自分の中に何か光り輝くもの、何か広大なもの、何か神聖なものが在るのを感じている・・・

その何かが絶対に必要なのだ。しかしそれをどうやって手に入れたらいい?

今のあなたにはまだわからない。なぜなら内インナーハンガー的な飢えと云うのは霊スピリチュアル的な必要性から来るものだから。

flower-of-light3瞑想は逃避ではない

もしこの世界から逃げ出して、苦しみを忘れるために瞑想の生活に入るのなら、それはまちがっている。この世における生活の失望や不満といった理由で精スピリチュアルライフ神生活を選ぶのであれば、それは長続きはすることはまずない。なぜなら、今日は欲望を満たすことが出来ずにこの世の中に不満をおぼえたとしても、明日になればきっととあなたはこう云う。「もう一度やってみるさ、今度はきっと上手くいくにちがいない。」

でもあなたはやがてわかってくる。欲望の人生に満足は決してありえないことを。そしてあなたはやがて、精神的な生活へ入ってゆく必要性を感じ始めることになる。

瞑想とは何だろう?
瞑想とは人間の自己覚醒であり、神が自らを捧げること
この二つが出会うとき、
人は内的な世界で不滅となり、神は外的な世界で満たされる

神聖な何かを求める人生<アスピレーションライフ>で欲しいのは唯一、神だけだ。心から神を求めれば、当然、神はご自身をわれわれの元に送ってくださる。しかし神はそれをご自身のやり方で、ご自身が選んだ〈時〉になさるのだ。もしあなたが、誠実なアスピレーションである資クォリティ質を得たいと祈り、瞑想すれば、たとえ神がそれをくださらなくても満足を得ることが出来る。

「ただ神のみがご存じなのだ。今はまだその時期ではないけれど、その時が来れば私に準備が整えば、神はそれを絶対に下さる。」とあなたは言えばよい。神聖な何かを求める人生では、何かを達成して満足を得るのではなく、神聖な何かを求めることそのものから満足を得ることが出来る。あなたは神聖な何かを求めることそのものに満足を感じるようになる。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

リンク

2013年5月___瞑想を始めよう!

5月のスペシャル・ゲスト シリーズ(東京、横浜)

シュリ・チンモイの瞑想法をつかった
瞑想ワークショップ(東京、横浜)

2013年5月のスペシャル・ゲスト シリーズです。この機会に瞑想を学んで毎日の生活に取り入れてみませんか?

開催場所:

東京中野区、杉並区、神奈川県横浜市。詳しいスケジュールはお問い合わせフォームへどうぞ。

参加費:

無料

スペシャル・ゲスト講師 その1:

アシルバード・ザイアントチック(ブラジル)

アシルバードの略歴:

ブラジル生まれ。15年にわたってシュリ・チンモイに師事し瞑想を学ぶ。これまでにヨーロッパ、アジア、南北アメリカ等25カ国で瞑想ワークショップを開催。日本はこれが9度目の来日。基本的な呼吸法、マントラによる集中テクニックなどの実習の後、ワークショップの最後ではシュリ・チンモイ師の無分別三昧の際の高意識の写真を用いた、パワフルな瞑想法を指導している。

スペシャル・ゲスト講師 その2:

abhisar-smアビシャル・ラジャ(チェコ)

アビシャルの略歴:

チェコ生まれ。シュリ・チンモイに師事し瞑想を学んで17年。チェコ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアなど主にヨーロッパで瞑想ワークショップを行って15年になる。人道支援や国際交流のボランティア活動にも活発に取り組む。今回が3度目の来日。

準備しないと試せない

準備しないと試せない。
試さないと前進しない。
前進しないと完成しない。
完成しないと満足しない。

No preparation, no attempt.
No attempt, no progress.
No progress, no perfection.
No perfection, no satisfaction.

(シュリ・チンモイ著「瞑想」第3章より)

Video: Sri Chinmoy in Japan, 1992

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2012年11月のワークショップ

Video of meditation teacher Sri Chinmoy’s visit to Japan in 1992. During the visit — one of many over a span of nearly 40 years — Sri Chinmoy planted a peace tree at the Kamakura Daibutsu “Great Buddha”, and gave a concert for peace at Tokyo’s Budokan Hall.

シュリ・チンモイと日本

シュリ・チンモイと日本

Sri Chinmoy performing a peace concert at the Kamakura Diabatsuシュリ・チンモイは大変な親日家で、生前日本を18回訪れました。

日本に来ると毎日詩心が鼓舞される、と日本や日本人についていくつも詩を書いています。

その中で日本を「忠実と優美の地 (Beauty’s Land, Duty’s Hand)」、「魂の花園(A Soulful Flower Garden)」などと描写し、その高い精神性を称えています。ここでは、シュリ・チンモイが1969年に初来日した際遭遇した出来事をつづった詩をご紹介します。

日本のお巡りさん

私は笑みを浮かべて そのお巡りさんに聞いたのです
「毎日デイリー・ニュースを何処かで買いたいのですが」
その若い交通巡査は 彼の職務を暫し中断して
なんと私の新聞を買いに行ってしまったのです
近くを駆け回って戻って来た彼は
私に新聞を手渡しながら言いました
「どうもありがとう」
そして彼は その代金をも 受け取らなかったのでした

日本のお巡りさんは微笑みが生きがい!
帰り路 私のインド人のこころは 涙を流したのです

(1973 「日本に捧げる言葉」スリ・チンモイ著 より)

2012セミナー日記

2012セミナー日記

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先日アメリカのキプラを講師に迎え

都内で4日間のメディテーション・セミナーが行われました!

ブラジルのアシュルバードが急きょ来日できなくなったため、

直前の変更でしたが、キプラもシュリ・チンモイのもとで

瞑想を34年間学んできたベテランです。

日本のスタッフも「一体どんなセミナーなのかな?」

とわくわく。

 

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キプラは本職がデザインの専門家とあって、絵や音楽を

ふんだんに取り入れた内容でした。

瞑想に興味のある方たちが20数名参加してくださいました。

毎回、内的探究心を持った方たちとセミナーのひと時を

共有できるのは大きな喜びです。

 

どの日も楽しかったのですが、私個人的に好きだったのは、

2日目の「シュリ・チンモイの音楽を聞いてイメージのままに

絵を描く」というアクティビティー。

子どもの心になれたひと時でした。

3日目の「歩きながら瞑想するウォーキング・メディテーション」

も良かった。瞑想のダイナミックな一面が体験できました!

 

キプラは今回が初来日。アメリカの参加者に比べて

日本の参加者がとても静かなのに感心していました!

空いた時間には観光も存分にして、よかったみたいです。

京都と鎌倉が気に入ったのは分かるとして、

都内の電車の車内アナウンスを記念に録音して

帰りたいといっていた…おもしろい…

 

(by Harashitā)