質問:集中・瞑想・観想

Updated

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


Q: 座って瞑想を始めるのですが、マインドを静めておくのにひどく集中しなければならず、なかなか内なる自己に触れることが出来ないのです。

Yahva meditating: Tokyo Sri Chinmoy Centre, Free Meditation LessonsA: あなたは気づいていないかもしれないが、それはごく正常なことだ。マインドを落ち着かせ、静かにしようとしていると云うことは、集中していると云うことにほかならない。なぜなら集中では思考と感情をコントロールし、そして集中から瞑想への道が切り開かれなくてはならないからだ。瞑想するには、感情的生活と落ち着きのないマインドは、すでにある程度訓練していないとだめだ。マインドを悩ませる思考をすべて追い払うのに成功したら、遅かれ早かれあなたの内的存在が前面に出てくることになる。それは丁度覆っている雲を一掃する灼熱の太陽のようなものだ。今のところ内なる太陽は思考、疑い、恐れなどといった雲に覆われてしまっている。この雲を追い払うことが出来れば、内的な自己が目の前で輝き、明るく光を放っているのがわかるようになる。

Q: 集中しているのか瞑想しているのかどうしたらわかるのですか?

A: 集中の場合にはとてつもない勢いがある。それは丁度的に向かって飛んでゆく矢のようなものだ。勢いのある力から活力をもらっていると感じるのなら、それは集中の結果だ。一方瞑想では、平安と広大な感覚がまわりすべてにあり、特にマインドにそれを感じる。自分の奥深くにどこまでも広がる〈平安・光明・至福〉の海を感じるなら、これは瞑想によるものだ。瞑想とは平安、静寂、そして広大さだからだ。集中と同じく勢いもあるが、その勢いは輝く光で満たされている。集中の場合には至高で輝く光は必要ないし、また殆どそのような光もない。

また集中はすぐに結果を欲しがる。ゴールに到達するためなら何でもする覚悟が出来ている。瞑想は意のままになる時間が無限にあると感じる。これは過ぎゆく時間を軽視している訳ではなく、過ぎゆく時に価値を置きつつも、過ぎゆく時の中に永遠の時が見えるのだ。だから、瞑想の内側には無限の平安があるのだ。

どちらの経験の方が好きだなどと、えり好みしてはいけない。神<スープリーム>〉があなたの中であなたを通して集中したい時には集中になるし、あなたの中であなたを通して瞑想したい時には、瞑想が起こるのだから。

Q: 瞑想の仕方を一度学んだら、集中の練習はもうしないのでしょうか?

Sri-Chinmoy-KamakuraA: 一般的なルールとして、スピリチュアルな生活を始めようとしているシーカーは、少なくとも何ヶ月かは集中から始めるがいい。集中を学ぶと、瞑想はやりやすくなる。しかし、瞑想が出来るようになっても、毎日の瞑想を始める前に数分間集中するのはよいことだ。集中すると云うことは、走る前にトラックの障害物を取り除くランナーのようなもので、トラック障害物がなければ、安全に速く走ることが出来る。そうなると、あなたは内なる特急列車のようになり、終点<ゴール>めがけてまっしぐらに進んでゆくことが出来る。

Q: 瞑想が終わったら、どうやって観想にいけばいいのですか?

A: 観想は修行を何年も経た、スピリチュアルな人生でもずっと上級者になってから出来るようになるものだ。観想とは内的なはしごの最上段ともいえる。スピリチュアルなアスピラントの中で、ごく限られた観想であっても、それが出来る者はとてもまれにしかいない。またそれでさえ、自分の思う通りに出来るものではないのだよ。

観想は神を悟る前に習得されるべきものだから、無視したり避けて通ることは出来ない。あなたは、まだ観想の必要はない。と云うのも、集中と瞑想がまだ完璧には出来ていないからだ。集中と瞑想の二つが完璧になったそのときは、観想もまた完璧に出来なくてはならない。そのときには、本当に〈至高なるもの〉のなかに入ってゆくことが出来る。

集中力がないのに、
どうやって外的な人生で成功することが出来るだろうか?
瞑想の平安がないのに、
どうやって内的な人生で前進することが出来るだろうか?

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より