~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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集中の力

集中とは内的に意識がはっきりと、冴えていると云うことだ。盗人はあなたのまわりにもそして中にもたくさん住んでいる。〈恐れ・疑い・心配・不安〉と云うのは、あなたの内的な安定や心の平安を盗もうとする内面にいる盗人のことだ。

しかし、集中の方法さえ知っていれば、このような力が自分の中に入ってくるのは難しい。猜疑心が思考<マインド>に入ってくれば、集中の力がそれをこなごなに砕いてしまう。また恐れが入ってくれば、集中の力が追い払ってしまう。現いま在のあなたがたは光の射さない、どんよりと暗い破壊的な考えの思う壺になっている。しかし、集中の力が増してくると、邪念の方がわれわれを恐れるようになるのだ。

集中と云うのは、われわれの中で機能しているマインドのダイナミックな意志の力だ。その力は光を受け入れ、闇を拒絶する。それはあたかもわれわれの中に住まう神聖な戦士のようなもの。神や真理を求める人生<アスピレーションライフ>の中で集中が果たしてくれる役割は想像の域を超えている。

集中はわれわれをこの地上での、まさに地獄そのもののような途絶えることのない心配と不安、そして拷問の苦しみから解放し、天国の永遠の続く悦びの内で生きてゆくことを容易くしてくれるのだ。

集中はゴールに到達する一番確実な方法といえる。そのゴールが神を悟ることであろうが、単に人の欲望を叶えることであろうが。真の求道者<アスピラント>は遅かれ早かれ集中の力を会得することになる。

〈神の恩寵〉、あるいはあなたの〈アスピレーション〉、あるいは継続的なトレーニングによって・・

 

魂の不屈の意思

Tenouchi集中〉それは何かに突入する弾丸、あるいは集中の対象を引き寄せる磁石のようなものだ。集中がおこなわれる時、どんな考えもマインドに入ってくることを許さない神聖なものでも神聖でないものでも、世俗的でも非世俗的なものでも、良くても悪くてもだ。

集中ではマインド全体を何かの〈物体〉かあるいは〈テーマ〉に注意を集中させる必要がある。もし花びら一枚に集中しているのなら、その花びら以外にはこの世には何も存在しないとマインドを集中すること。前も後ろも、上も中も見ず、ただ一点集中の力でその対象を射抜くこと。しかし攻撃的に何かに入っていくわけではない。この集中力は魂の不屈の意思、意志力からきているのだ。
何かの対象を使って集中を練習する場合には、その対象からすぐ喜びを得られるものを選ぶこと。あなたに師<マスター>がいるならマスターの写真からたちまち喜びを得られるはずだ。マスターがいなければ何かとても美しく、神聖で純粋な、例えば花のようなものを選ぶといい。

思考<マインド>の光を放つ一点集中の力で集中する

こころ<ハート>の広がり続ける広大さのなかで瞑想する

魂<ソウル>の満たしてゆく一体感で観想する

 

ハートから集中する

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蓮花/蓮華/ロータス

道<アスピラント>を求める人々からよく言われるのが、五分以上集中出来ないと云うものだ。彼らは五分経つと頭痛がしたり、頭に火が点いたようになってしまうと云う。何故だ?

それは、集中の力が知的なマインド、言い換えれば訓練されたマインドからきているからなのだ。マインド自身、ふらふらしてはいけないことくらいは分っている。それくらいはマインドにも分かっている。しかしマインドを正しく、光のあたったやり方で活用するには、魂の光が入ってくる必要がある。魂の光がマインドに入ってさえくれば、いとも簡単に何時間でも集中することが出来るようになる。その間は考えも疑いも恐れも浮かんでくることはない。あなたのマインドが魂の光で満ち溢れていれば、否ネガティブ定的な力は全く入ってくることが出来ないのだ。

集中しているとき、その集中の力はハートの中心からやってきて、第三の目へ向かって上昇していると感じること。ハートの中心には魂がいる。ここでは、魂がどんなものなのか、どんな形をしているのか、などと云うことは考える必要はない。ただ、神の代弁者、または限りない光明と歓喜そのものだと思ってみることだ。集中したら、魂の光がハートから出てきて第三の目を通り抜けると感じなさい。そうして それからこの光で、集中している物体に入り込み一体になり。集中の最終段階は集中している対象の中に隠れた究極の〈真実〉を見つけ出すことなのだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より

 

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