~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より


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瞑想は現実的なのだろうか?

ある人が日常生活で正しいタイミングで正しいことをする時、その人のことを分別があって現実的だと云う。その人は他の人にだまされないように、また社会生活がスムーズに運ぶように、ある一定のやり方で考え、行動をする。しかし、たとえどんなに賢く、どんなに誠実で、どんなに意識して生活していようと、現実社会の生活で途方にくれてしまう場合がある。

「何を言っていいかわからない。」
「何をしていいかわからない。」
「どう振舞っていいかわからない。」

または、正しいことを言ったり、行ったりしているにもかかわらず、すべてが悪い方へ行ってしまうことがある。

この社会の現実経験とどう付合っていったらいいかわからず、人生を管理することができないのだ。心から何かをしたい、または何者かになりたいのに、出来ないのだ。

なぜこのようなことが起こるのだろう?

それは、われわれの外的な力は、常に内的な気づきの限界によって制限されているからなのだよ。しかし内的生活で現実的であれば、つまり祈り、瞑想すれば、限りない〈内的気づき〉を持つようになる。内なる気づきがある人は、無限の真実と永遠に続く喜びに自由にアクセスでき、外的生活を簡単にコントロールすることが出来る。

精神生活<インナーライフ>は常に真実<リアリティ>と神のメッセージを運んでいる。〈真実〉のあるところには〈種〉がある。〈種〉に芽を出し、木になってもらうことにしょう。木に実がなるとき、内面世界の力が現実世界で体現されるのが見える。常にわれわれは、外側からではなく内側から成長してゆくのものだ。

社会生活<アウターライフ>で何をしようが、何を言おうが、〈真実〉の光明に近づいてはいない。しかし、まず瞑想し、それから行動し、話すのなら、正しいことをし、正しいものになって行く。精神生活<インナーライフ>と内的現実<インナーリアリティ>が社会生活を導いていかねばならない。その逆ではないのだ。

社会生活の命の息吹は精神生活から来る必要がある。内的現実が社会生活に入って行かねばならないのだ。そうして初めて、社会生活で本当に現実的になることが出来るのだ。

Q&A

Q: 日々の瞑想から、自分が抱えている疑問に答えていくことができますか?もし出来るなら、その答えがマインドでなく本当にハートや魂から来たものなのか、どうやってわかるのでしょうか?

flower-of-light3A: どんな疑問であっても、瞑想中または瞑想の後で、答えを見つけることが出来る。自分の奥深くに入って行けば、答えは必ず得ることが出来る。ただ答えが来たら、それが魂から来たものなのか、マインドから来たものなのかを見極める必要がある。もしその答えがハートか魂から来たものなら、安堵と〈平安〉を感じるはずだ。そしてその答えを否定するような対立する考えは、何も浮かんでこない。しかしその答えがハートか魂から来たものでないのなら、マインドが前面にやってきて、あなたが受け取った考えに対立することになる。

マインドから来たメッセージには確実性がない。マインドはこの瞬間には一つのことを言い、次の瞬間にはまた別のことを云う。この瞬間には私のことを「とてもいい人だ」と告げたかと思うと次の瞬間には「いや、あいつは悪い奴だ」と云うのだ。しかしハートは常に同じメッセージを提供する。朝に瞑想すると、あるメッセージをもらう。そして夜瞑想してもハートからは、朝と同じメッセージを受け取るのだ。

誰か、 ―たとえば上司―に会うように内的メッセージを受け取ったら、ただその人に会いに行く。しかしそのメッセージがマインドから来たものであるなら、会いに行く前にマインドの中でたくさんの疑問が沸き起こってくる。そしてやっと会いに行ったのに、その結果が満足出来るものでなかったとすると、今度は自分を責めて、「ほら、やっぱり会いに行かなきゃよかった。あれウソのメッセージだった。」と云うのだ.

しかしもしそのメッセージが魂から来たものなら、確固とした確信があり、成功しても失敗しても同じように満足する。メッセージの通り行動している間は自分の望むような結果を期待したりはしない。上司が自分に満足してくれるかどうか、何か自分のためにしてくれるかどうかといったことは何も期待しないのだ。ただ実行し、その結果が成功と云う形で来ようと失敗と云う形で来ようと、正しいことをしたのだと感じるだけだ。

~ シュリ・チンモイ 著書「瞑想-人間の完成と神の満足」より